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ひきこもり歴13年から今にいたるまで⑫

フォークをくるくると回してパスタを巻きつける。
それを口に運ぶ。

皿から視線をあげると、机をはさんだ向こうの席には父と母がいて、それぞれの料理を食べている。

それは見慣れない景色で、そこにいるのはなじみの薄い自分だった。

10年以上、こんなふうに両親と外食をとる機会はなかった。
ひきこもる前、両親と外食していたときの私は、オレンジジュースが入っているグラスやその下に敷かれているコースター、鉄板で音を立てているハンバーグ、使い慣れないフォークやナイフにワクワクしているような小学生だった。

今ここにいる私はどうふるまえばいいのだろう。
11歳と24歳の私の間にある溝をどう埋めればよいのか。
ちょっと手持ち無沙汰で、すこし戸惑う。
戸惑いつつも、小学生だったころの私なら頼まなかったようなパスタをフォークに巻き付ける。
そしてそれを口に運ぶ。

昼食時の週末のレストラン。
他の席からは、いろんな話し声や、ナイフやフォークや皿がたてる音が聞こえてくる。

今ここにいる私たちは他の人たちの目にどのように映っているのだろうか。
外食をするありふれた家族に見えるだろうか。
つい数か月前まで、11歳から13年間ひきこもっていた息子とその両親に見えるだろうか。
そんなことを意識の片隅で考えながら、両親と互いの近況を話し合った。

実家の鹿児島から1人宮崎に移ってから、月に一回、両親が訪ねてきた。
最初はかなり私のことを心配していたのだろう。
宮崎にいた約4年間、両親の月一の訪問はつづくことになった。

宮崎時代の後半になると、それは私の近況の確認だけでなく、両親にとって月一回のレジャーのようなものになっていたようにも思う。

こんなふうに書くと子離れと親離れができていない親子のように思われるかもしれない。
確かにそのような面もあったのかもしれない。
ただ、実際は電話もめったにかけないし、月一回、対面してもたくさん話すというようなことはなかった。
それに、当時は家の都合で、両親は私と3時間外食や買い物をしたら日帰りで鹿児島に帰っていった。

それでも、実家にいたころとくらべると段違いの会話量だった。
実家にいたころは会話をする機会もあまりなく、話したとしても内容や使われる語彙は限られたものだったから。

そのような月一回の訪問を重ねて聞くなかで両親と私はお互いの距離感を取り直していたようにも思う。

今回は、両親とのことについて書いてみようと思う。

私が11歳で不登校になったとき、両親もどうしていいのかわからなかったのだろう。
そのときの両親がどんな気持ちであったかを当時の自分には想像する余裕もなかったから、今では想像することしかできない。
ただ当時の両親の対応で覚えているのは登校を強制することや、学校に行けない私を責めるようなことはなかったということだ。

といって、両親が何もせずに自分を放っておいたというわけではない。
以前も書いたこともあるが、沖縄にフリースクールの見学に行ったり、自宅で勉強を教えてくれようとしたりもした。

1度だけだが母と二人で病院(心療内科か、精神科か)に相談にいったこともあった。
私は車内で待っていて診察をうけることはなかったのだけれど。
病院のなかで医師と母は何を話しているのだろうか、学校にいけない自分はやはりどこか変なのだろうか。
車の中から覗いた病院の建物の壁がのっぺらぼうみたいに表情がなくて不気味だったことを覚えている。
車内で1人待っている時間は、心細くて時間の経過が遅く感じられた。

上記のように両親が示してくれる選択肢を当時の私は受け入れることができなかった。
それは当時の自分が不登校である自分を受け入れることができていなかったからだと思う。
小学生は小学校にいくものであってそれ以外はありえない。
小学校に行けないのなら、家以外自分が過ごせる場所なんてどこにもないのだと感じていた。

共働きの家庭であったから、小学生だった私は1人で家で過ごしていた。
さみしさや心細さから親に一緒にいてほしいとたまにごねたこともあるが、親が仕事を休んだら休んだで申し訳なさを感じてしまい、何度もお願いすることはできなかった。

そして思春期を迎え、以前にも書いた強迫神経症の症状であるこだわりや、反抗期からくる親への反発で、私は自室で過ごす時間が多くなっていった。

昼夜逆転もしていたため、食事も一人でとるようになり、会話をしたり、顔を合わせたりする機会も減っていった。

共働きだった両親が仕事に出かけたのを確認してから、台所に食事を取りにいったり、トイレにいったりした際に、応接間兼父の書斎のような部屋の机や本棚に不登校やひきこもり関係の本があるのをみかけた。

反抗期真っ盛りの当時の自分はそれを見て、心配してくれているのだなと思うのではなく、不登校というカテゴリーで自分をくくられているようで反感をいだいていた。
不登校児としてではなく、私自身を見てほしいというような感覚だったと思う。

親は自分のことをわかってくれていない。
どうしてわかってくれないのか、と悔しさやもどかしさが常に自分の胸の中で渦巻いていた。
裏を返せば、理解してほしいという思いがとても強かった。

わかってほしくて、たまに話をする。
話しをすると、私のことをわかっていないと感じて、傷ついて、また距離をとる。
そんな繰り返しだった。

何をそんなに求めていたのか。
今となっては当時のことをそのまま思い出すことはできない。
でも、ただただおぼれているみたいに苦しくて目の前にいる両親に助けてほしいと切望していたように思う。

学校に行けなくて、外に出ることができなくて、ただ1人家にいるという状況に、私の頭の中は混乱して、焦っていて、常に緊急事態の警報が鳴っていた。

そのような状態が解決されることがないまま、生活が続いていくということが信じられなかった。
自分の頭のなかの状態と、日々がどこか淡々と同じように過ぎていくということのギャップに戸惑ってもいた。

10代の自分からすると、自分の近くにいるのは両親だけなのに、おぼれている自分を、両親はただ見ているだけで何もしてくれないように感じていた。
かといって具体的にどうしてほしいのかを自分ですらわからなかったから、救いがなかった。


ひきこもり歴13年から今にいたるまで⑫

終わり

両親とのことを書いていたら長くなったので、今回と次回の2回に分けようと思います。


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