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オカルティスト三島由紀夫 憂国の作家が追い求めたUFOと『日月神示』、そして輪廻転生

今年もまた11月25日、憂国忌を迎える。――三島由紀夫が自決してからそろそろ半世紀が経過しようとするが、彼の言行は、文学のみならず、政治、文化など、戦後日本の歩みに広く影響を与え、その影響力は現代に至るも衰えることがない。
その三島は、若い頃から霊異とミステリーの世界に異様な関心を抱きつづけ、その知見は、彼の文学作品だけでなく、自身の死生観にも強い影響を与えた。その結果が、あのような最期であったともいえるのだ。これまであまり知られてこなかった、昭和の文豪の「オカルティスト」としての顔を浮き彫りにしてみよう。
(ムー2016年11月号)

文=古川順弘 イラストレーション=シブヤユウジ

三島と岡本天明の知られざる邂逅

 三島由紀夫が23歳のときに書いた、「邪教」という、ちょっと風変わりなエッセイがある。それは、太平洋戦争末期の、ある奇妙な体験を語ったものだ。
 当時三島は東京帝国大学法学部の学生だったが、戦況悪化と繰り返される本土空襲で、大学はとてもまともな講義が行われるような状況ではなく、東大生といえども、まるごと神奈川県下の軍需工場(海軍高座工廠)に勤労動員として送り込まれるありさまだった。
 ちなみに、三島本人は、この動員に先立つ昭和20年(1945)2月に赤紙を受け取っていたが、入隊検査で「肺浸潤」と医師に誤診されて「不合格」となったため、学徒出陣は免れていた。その一方で、前年10月には、つまり弱冠19歳で女小説集『花ざかりの森』が出版されていて、戦時中とはいえ、天才小説家として一部の文学者たちからすでに将来を嘱望されていた。

 エッセイの内容に話を戻そう。
 さて、動員で三島と一緒だった学生のひとりに、Sという男がいた。彼は両親を戦災で失った気の毒な身の上だったが、いつも明るい顔していた。というのも、ある新興宗教に帰依していたからだった。そしてSは、ある写本を日頃、耽読していた。
 その写本は何かというと、「それは教祖が深夜祈禱のあげく神がかり状態になり、自動筆記した墨書の原本だという。和綴の鳥の子の帖面に、一字もよめない雲のような字体がうねっていた。これはみな数であらわしてあるのだとSはいう。十はとであり、九はくである。そう思ってよむとよめそうに思われた……」
 ここで筆者があえて種明かししておくと、この「教祖」とは岡本天明、「自動筆記した墨書の原本」というのは、『日月神示(ひつくしんじ)』のことであった。ムーの読者なら、よくご存じだろう。ただし、三島はエッセイの最後まで、そのことを明かしていない。

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