自己評価さえも脱ぎ捨てて 378-20240201
2月です。去年の2月ごろ、今のような感じになっているという予想は全然していなかったでしょう。油断しまくっていた昨年の私。
そういえば、そうする必然性がないことけどやらなければならないこととして社会に実装されているものって結構ありますよね。例えば、この日記もそうだけど、人事考課とか、本当になんの意味があるのかっていう感じがありませんか?
自分にできることをなんとか精一杯やっていくしかないと思っているのですが、ある区切りごとに目標設定と面談というイベントがあって、それで評価されて、あーだこーだ、やれ評定が低いだとかあいつは昇進するだとか、自己評価とズレてたり、相手のことを気にする仕組みがたくさん整っているのってどうしてなんでしょうね?
僕たちはそんなに評価されなければいけないのだろうか?会社からの評価が一番意味がわからないですが、周囲からの評判とか、友達からどう思われているかとか、そういうのも基準ができれば評価の対象になりますよね。
これも、以前に書いた時間や季節などと同じように、人間が効率的に過ごすために作り出した幻想の一つでしかないんですよね。連続的なものを非連続的なものに置換することによって、つまり区切りをつけることで、効率よく、納得感を持たせつつ、めんどくさい人間関係に蹴りをつけながら、物事を進めていくことができる。
の、かもしれません。自分で書いていて疑問が湧いてきますね。常に評価にさらされている現代社会において、どうしたら他人との比較から逃れることができるのだろうか。
他人との比較から逃れるために、森にこもったりしても、森にこもった人として評価されてしまうので、それでは意味がない。
大事なのは、たぶん、その評価は恣意的かつ効率に基づいたものだ、と理解し、自分の評価は自分でもしない、そのままでいることでいい、とすることなのかもしれません。それだけで、少し生きやすさが上がるかもしれない。
どうだろうか。以上です。
※TOP画像はDALL-Eで作成しています。
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