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0037:自分を愛するということ

自己愛

愛についての話を、続けましょうか。大事なテーマですからね。
d(^~゜ )

今日は、自分を愛することについて話しましょう。前にも少し書いたけど(0026)、自分のことが好きになれないと、幸せにはなれませんからね。幸せになれないと、当然、人生は辛いままです。

自己愛、という言葉に、汝らはどういう印象を持っているでしょうか?

ワガママ? 自分勝手? 利己的? こういう印象を持っているなら、汝の中では「自己愛」という言葉には、すごくネガティブなイメージがついていますね。

そもそも、いつでも、なんでも「われ先に」と自分のことばっかりやる人は、社会では浮いてしまいますし、敵もたくさん作ってしまうし、だけど、厚かましいからお金持ちになっちゃったりとかして(笑)、だからこういう人が「自己愛が強い」という印象を受けてしまうんじゃないかと思います。

まぁ、そういう理解でも間違いではないんですけど、自己愛というものは、ときに大変重要なものでもあります。いつでも自己犠牲の精神で生きると、自分の体やお金を維持できなくて、疲れてしまいますからね。ほどほどのバランス感覚みたいなもんが必要なのかな? なんて思ってる汝らも多いのではないでしょうか。


「自分」の「範囲」

自己愛、というものを語るときに重要になってくるものは、実は

「自分」とは、どこまでが「自分」なのか

という概念だったりします。ちょっと日本語がヘンですけど、分かりやすいようにこのままにしておきます(笑)。

前に書いた通り(0028)、この世界の全ては「モト」でできてるんでしたよね。そんでもって、この地獄の世界は、ギッチギチにモトが固まってできていると。復習しますが、モトのない場所は、存在しないんです。ただ、その座標が質量か空間か、その違いがあるだけです(0027)。

わしらの肉体も魂も、モトでできています。肉体は物質ですので、すごく濃いモトのカタマリですが、魂はそれよりもずっと薄いモトのカタマリです。どっちもカタマリですけど、濃さが違うんです。

で、もちろん、他者もモトでできています。生き物もですが、物質の材料もモトです。もっと言えば、他者と汝の間にある空間すらも、モトでできています。

この世にある、あらゆる全てのもの、そして、この世にないあらゆる全てのものが、モトでできています。

もう一度言いますよ、この世に「ない」ものも、すべてモトできています

だから、実は、わしも、汝も、草も木も動物も、石ころや水や有毒ガスまで、全部モトでできているんです。そしてそれらが存在しない、真空の空間ですら、モトでできているんです。

つまり、モトという観点から世界を見れば、この世には

境い目がない

ことになります。全部ひとつなぎの秘宝、ONE PIECEなのです。海賊王もビックリです(笑)。

そんな中で、わしらは「自分」というものを維持して生きています。わしらの「自分」の範囲は、便宜上はわしらの「カラダ」ということになっています。なぜなら、「自分」と「他者」がいないと、じゃんけんができないからでしたよね(0021)。これが、本来なら境い目なしのシームレスなモトでできている世界で、他者と自分を「分けている」仮想的な境い目となっているのです(0013)。


アタマと「自分の範囲」

その「境い目」を認識しているのは、実は「アタマ」の働きだったりします。頭が「自意識」というものを駆使して、自分と、自分でないものを区別しています。

そしてこの地獄では、自分でないものは、生きるために使ったり食べたりしていい物、という本能が組み込まれていますので、わしら生き物は、そうやって生存競争を行なって、日々地獄生活をしています。

大概の生物は、自分のカラダが自分と自分以外の境い目であることを本能的に理解していますので、そのように振舞います。最初に書いた「自己愛の強い人」の例は、この延長線上にあると言えますね。自分の外にあるものは、自分が利用したり、食べたりしていいもの、という認識です。

自己愛には、もう一つ作用があります。それは、自己防衛本能です。その観点から、自分の中にあるものは、守るべきもの、という発想が生まれます。

そんな中、人類はすごく発達した「アタマ」を身につけることに成功しました。

実はこの、わしら人類の発達したアタマによって、元来生物が持っていた「自分の範囲」という概念が、随分と広くなってきているんです。

例えば、家族。「身内」なんて言葉もありますね。これは、他のグループに比べれば、より「自分の範囲」に近い存在だったりします。そしてさらに広がって、地域であったり、学校のクラスであったり、恋人同士であったり、こういった集団が「自分の(薄い)範囲」としてアタマに認識されていたりします。

だから、人間が言う「自己愛」は、実は、他の生き物や、すごくワガママな人のそれとは、ちょっと意味合いが変わってくるんです。この「自分の範囲」によっては、自己愛という概念が、嫌悪すべき利己主義とは、ちょっと違ってくるかもしれません。

長くなってきたので、その辺は次回の話で。最後に、わしの話、単純に信じないでよー!
(^~^ )

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これは、拙ブログ『人生はなぜ辛いのか、と思った時に読むブログ』からの転載です。イラストや強調で分かりやすい、本家サイトはこちら。
https://jinseihanazeturainoka.blogspot.com/
このブログの文章を初めてお読みの方は、ぜひ第1回からお読みください。
https://jinseihanazeturainoka.blogspot.com/2018/09/0001.html
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「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)