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【短編小説】夜を駆ける

 人通りの途絶えたスクランブル交差点で、歩行者用信号が無意味な点滅を繰り返す。下品な音とともに、アルミの箱をかかえたトラックが走り出すも、その後はカラフルな三つ目も無意味な存在に成り果てる。昼間ではまずお目にかかれない景色を眺めながら、僕はちらりと左腕を見た。時計の針は深夜3時を指している。
 平日の真夜中、繁華街ですら息を潜める曜日と時間。ましてや地方都市のオフィス街、現在ここには僕と植物以外の生き物は存在しない。駅前に設けられた空中庭園、ペデストリアンデッキの中央で立ち止まり、ふと振り返ってみる。高さおよそ10メートルからの、がらんとした都市の俯瞰は、地球という大きな惑星の大部分がそうであるのと同じように、今や無人の荒野であった。いつもは人間と機械の放つ熱で陽炎に揺らめいて見えるこの街並みにも、こういった表情を見せる瞬間があるのかと、僕は少しハッとなった。なんだかこの光景が昼間の喧騒よりはむしろとても自然なことのように感じられて、僕はまるでアルプスをトレッキングしているかのようなちょっとした爽やかさを味わった。


 ただ、大きな問題が一つある。それは、現在雨が降っていて、しかも僕は傘を持っていない、という大変深刻なものだ。

 空中庭園を横切って、会社から駅へ向かって大またで歩く。こんな時間だ、もちろん電車なんかもうない。だけど、他にすることなんか思いつかないので、なんとなく体が動くままに僕は行動していた。会社を出たときは、まだポツポツと頭頂をぬらす程度だった雨も、少しずつ本格的な降りに変わりつつある。僕はとにかく屋根のあるところまでたどり着こうと躍起になった。さっきまでのちょっとした清々しさなんか、もはや跡形もなく消滅していた。

 駅の入り口には当然のようにシャッターが下りていた。昔のRPGの宝の部屋みたいに、向こうは見えるけど中には入れないという、もどかしくも意地悪な格子状のシャッターが。シャッターのある入り口には2メートルほどの軒が設けられており、駅前で雨をしのげる場所はどうやらここだけしか存在しないようだった。というより、こんな軒が設けられていたのかと、今更ながら僕は思った。毎朝毎晩必ず通る出入り口のはずなのに、こんな些細なことに今まで気づかなかったとは・・・僕は自分の認識能力の迂闊さに改めて気づかされ、ほうっ、とため息を一つ。そして、このため息にはもうひとつ、次第に強まってくる雨に対する憂鬱な気分を表現する意味合いも含まれているはずであった。
 だが幸いそんなに濡れずにすんだようだ。僕はハンカチで眼鏡を拭いて、ブレザーの雨粒を手で払いながら、振り返って雨脚を見ようとした。

 と、そこで先客がいるのに気づいた。

 彼女はこちらの様子をたたじっと見ていた。僕は視界にいきなり出現した人物に見つめられていたことに驚き、道路に飛び出した猫みたいに、ピシッと固まってしまった。

 沈黙。ほんの数秒のことであろうが、古いアニメの一枚絵よろしく世界が止まった。その沈黙を破ったのは、僕ではなく彼女のほうだった。

「雨、やみそうにないね。」
 年は僕より5つぐらい下だろうか、最近のファッションについては全く分からないが、派手すぎず地味すぎずの、どこにでもいる街の女の子といった格好の彼女だが、僕を見つめるそのつぶらな瞳は、不思議とどこか落ち着くような、やわらかい雰囲気をかもし出していた。
「そうですね。」
とっさのことで僕は何と返したらいいか分からず、その上少しばつが悪いむずむずする気分だったので、ややぶっきらぼうな返事をしてしまった。
 気分を害したのか、彼女は視線を街のほうへと移し、降りしきる雨粒をぼんやりと見始めた。僕はさらにばつの悪い気分になり、かといって彼女のほうをじっと見つめるのも失礼な気がして、同じようになんとなく雨に煙る街を、ただ眺めることにした。

 通りにはもはや車の往来もないようで、今はただしゃらしゃらと雨の降る音だけが聞こえてくる。ぼんやりとかすんで見える街並みは、断続的な雨音とあいまって、まるで古いモノクロ映画を見ているかのような、非現実的な感覚を僕の脳に送り込んでくる。本当にここは、僕が毎日通っている街なんだろうか。いつも見る景色とどうしてこんなに違うのだろう。


「残業?」
 ノイズ交じりの静寂は、いきなり木っ端微塵に砕け散った。彼女の言葉はまるで自分でも忘れた頃に返ってきた木霊のように、うつろな響きで僕の中に吸収された。ザンギョウ、という音・・・当初、脳はそれを言葉として認識してくれなかったが、やがて僕はふと理性を取り戻し、彼女と会話しなければ、と数秒遅れで思い至った。
「あ、ええ、そんなもんで。」
自分でも驚くほど曖昧で中身のない返事だ。彼女は子供と話す母親のようにニヤッと笑って
「ごくろうさま。」
と明るい声で言った。


 雨の音が続いている。雨音は、僕たちをこの小さな世界に閉じ込めるカーテンだ。僕は会話が終わるのが怖い気持ちになって、無理矢理にでも先を続けようと思った。
「あの、君は?」
僕の小さい声も、どうにか彼女には届いたらしく、彼女は
「あたしは・・・うーん、待ち人きたらず、って所。」
と言って困ったような笑顔を見せる。
「さっきまでは、そこにあるベンチで座ってられたんだけどね。でもこれじゃぁさ。」
「そうか、災難だったね。」
と僕は取って付けたような相槌を返す。

 それきり二人は黙って立ったたまま、街をぬらし続ける雨をぼんやり眺めていた。それは5分くらいだったのか、それとも永遠だったのか・・・どちらとも取れる不可思議な時間が流れた。雨は刻一刻と激しさを増し、降り始めの頃には考えられなかったような雨量に達していた。街はかすんでいるというより、もはや降り注ぐ水に阻まれて視界が利かない状態になっていた。どこか西のほうから、ごろごろと低い雷鳴が微かに聞こえていた。

 突然、視界の端で何かが動いた。彼女だった。
「うわぁっ!」
はしゃいだ声が宵闇を切り裂いた。彼女は、今や土砂降りともいえる雨の中に飛び出したのだ。両手を大きく広げて空を仰ぎながら
「シャワーみたい!」
と笑って僕のほうに振り返った。そして、あろう事か
「おいでよ!気持ちいいよ!」
と、激しい雨の音に負けまいと声を張った。
「え?・・・ええ?」
唐突な誘いに僕はとにかく面食らって、とても人には見せられないような情けない顔と質問を彼女に投げかけた。
「な、な、何だって?」
ずぶぬれの黒髪から雫を垂らしながら、彼女は後ろに手を組んで、にっこりと微笑を向けた。水を吸って重そうなスカートが足にまとわり付いている。少しかしげられた首は、明らかに僕の決断を待っている証拠だ。
 僕は、一体全体、今ここで何が起こっているのかをもっとよく見ようと、首を突き出して両目を大きく見開いた。

 糸が見えた。

 僕と彼女の間に。よくある赤いやつじゃなく。

 僕はなんだかよく分からないまま、その消えてしまいそうな細いつながりを手繰るように、ふらふらと軒下から一歩を踏み出した。降りしきる雨は瞬時に、そして容赦なく僕の髪を、顔を、眼鏡を、スーツを、革靴をべちゃべちゃに濡らした。僕は豪雨に打たれながら、たどたどしい足取りで一歩、また一歩と彼女に近づいていく。あと2~3歩で彼女に手が届く。
 と、彼女はくるりと背を向け、ととと、と数歩小走りして再びこちらに向き直った。そしていたずらなニヤケ顔をべちゃべちゃに濡らしながら、片手を大きく上げて、激しく振った。


 僕は駆け出した。
 彼女も踵を返して激しく駆け出した。
 彼女がミュールを脱ぎ捨てるのが見えた。僕もガポガポいう革靴を脱ぎ捨てた。ずっしり重いブレザーも脱ぎ捨てた。ペデストリアンデッキのつるつるした石畳は雨で滑りやすく、靴下履きの僕の足じゃ、裸足の彼女にもどかしくも全然追いつけない。

 ややあって、二人はペデストリアンデッキの端、欄干に体をもたせてゼイゼイと荒い息をしていた。彼女はどうだか分からないが、僕はデスクワークのせいで体がずいぶんなまっていたようだ。たったこれだけ走っただけなのに。

「死ねーーーーーーーーーーーーーッ!」

 闇を切り裂く稲光。僕はびっくりして声のするほうを仰ぎ見た。彼女が、誰もいない市街地に向かって、バズーカ砲でもぶっ放すかのように叫んでいた。

「しねーーーーーーーーーーーーーーーーーぃッ!」

2度、3度、4度。4度目なんかはもう言葉ではなくほとんどただの叫び声だった。

「シネーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!」

今度は僕が叫んだ。ずぶぬれになってしまって、もう怖いものなんかなくなってしまったような気がしていた。

「しねーーーーーーーーーーっ!」
「死ねーーーーーーーーーーっ!」

僕らは交互に何度も叫んだ。そして最後に目線を交わして同期を取って、

『しねーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!』

と声を合わせた。

 再び肩で息をする二人。顔を見合わせ、一呼吸あって、大爆笑の渦。もう笑うしかない。おかしくてうれしくて、立っていられないほどに。

 瀧のような雨の中、欄干に背をもたせてへたり込み、ひとしきり笑った後、しばしの沈黙。そしてまたもやその静寂を破ったのは彼女だった。
「見えたんでしょ?」
何の話だ? といぶかしむ僕の心を読んだのか、彼女は続けた。
「糸。見えたんでしょ?あなたにも。」
「どうして、それを・・・」
あの時確かに、不思議な糸が見えた気がした。色のない、でも透明じゃない細い糸のようなものが。彼女はただにこっと笑って、
「それで十分。」
と言ったっきり黙ってしまった。

 結局僕たちはしばらくしてから、タクシーでそれぞれ帰路に着いた。お互いの名前すら知らないまま、出会った時と同じようになんとなく別れた。そしてそれっきり彼女とは会っていないし、街ですれ違ったこともない。

 だけど、確かに僕には、それで十分だった。



「ニンゲンのトリセツ」著者、リリジャス・クリエイター。京都でちまちま生きているぶよんぶよんのオジサンです。新作の原稿を転載中、長編小説連載中。みんなの投げ銭まってるぜ!(笑)