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遊びとテクノロジーの逆説

日々、めんどくさい作業がたくさんあって、テクノロジーが発達したら、こんなことは二度とやらなくて済むのに、と思うことは多い。

ところが印刷技術が発達したというのに、毛筆で書道を続けている人がいる。
写真技術があるのに、いまだに絵を描く人がいる。
クイズ番組では、検索すればわかることをわざわざ記憶して競っている。
車があるのに馬に乗る趣味が根強く残っている。
建物があるのに、キャンプに行ってテントを張り、薪で火を起こして調理をする。

これは一体どういうことだろう。

この記事では、テクノロジーの進化と人間の行動に潜む逆説を、動物行動学の視点で探ってみる。


テクノロジーが進化するほど、作業は娯楽になる?

テクノロジーが進化すれば、面倒な作業はどんどん減るはずだ。それは素晴らしいことに思える。それなのに人間ってやつは、せっかくやらなくて済むようになっためんどくさい作業を、わざわざ趣味や娯楽として楽しむようになっている

AIが最も得意とする画像パターン認識をあえて人間がやるゲーム、GeoGuesserはまさにその典型例だ。

ゲームの中でまで事務作業をするJob Simulatorなるゲームまで存在している。しかもこれがかなりの高評価なのだ。

これは、実に面白い現象だ。技術が進化するにつれて、やらなくて済むことが娯楽として再発見され、楽しさが見出されていく。言い換えれば、テクノロジーの進化は、手段だった行為が目的化する現象を促進しているのだ。

遊びの動物行動学

物事に楽しさを見出すという行為は、人間を含む動物に特有のものだ。多くの動物も、私たち人間と同じく「遊び」という行動に時間とエネルギーを費やす。遊び行動は一見目的がなさそうな行動とされている。動物の遊び行動にはいくつかの種類がある。

物体遊び」は、ボールなどのおもちゃを使う遊びで、犬や猫はもちろん、多くの哺乳類や、鳥類でも見られる。

運動遊び」は、自分の身体の動きを使う遊びだ。トランポリンで遊ぶキツネや、滑り台で遊ぶ鳥など様々な動物で確認されている。

社会的遊び」は同種あるいは異種の他の個体との遊びで、社会性の高い一部の動物に限られる。

社会的遊びは、相手を打ち負かす闘争とは違い、勝つ事を目的としていない。それどころか、わざわざ手加減する行為も特徴的だ。

遊びの進化的背景

生物学者はよく、こうした遊び行動に生物学的な重要性を見出し、「認知能力や社会性の発達に役立つ」と説明する。しかしこういういかにもそれらしい説明は、遊びの「遠い目的」にすぎないことを理解しておく必要がある。

遠い目的は、遊び行動が進化の過程でずっと保存されてきた説明にはなる一方で、遊びをする個体がそれを意識しているわけではない。遊ぶ理由を聞かれて「これはね、認知能力を鍛えているんだよ」と答える子供はいないだろう。彼らはただ「楽しいから」遊んでいるにすぎない。

この「楽しいから」という直接的な理由、つまり「近い目的」こそ、遊び行動の動機だ。進化的には、もちろんこうした行動は保存されてきた理由があるだろうが、個体レベルでは遊びは単純に楽しさによって動機づけられている。

やる必要がなくなった行為の楽しさ

ここに興味深い逆説がある。テクノロジーの進化によって、私たちは多くの「やる必要がない」行為を取り除いてきた。しかし、それらの行為が消えるどころか、むしろ娯楽として復活している。この現象は、やる必要がなくなった行為に楽しさが見出されるということだ。

これは以前私が書いたオートテリック活動の概念そのものだ。

手段だった行為が目的化し、それが文化的な価値や娯楽として再定義される。現代の人間は、効率を追い求める一方で、無駄を楽しむ特権を持つ動物と言えるだろう。

AIにはできない「楽しさ」

(今のところ)AIは、こうした「無駄を楽しむ」ようにはプログラムされていない。AIは実用目的に作られているので、意味のない計算を「面白がって」繰り返すAIというのは、ありがたくない。

一方で、あえて無駄なロボットを作り続けるアーティストもいる。

無駄な計算を続け、それを報酬として解釈するAIが出てきたら、それはそれで現代アートとして面白いかもしれない。そうなったとき、AIも「遊び行動」を獲得したと言ってよいのだろうか?

おわりに: 動物の特権としての遊び

遊び行動は、動物としての特権であり、テクノロジーの進化によってその意義はより複雑で豊かなものになっている。私たちは効率を求めながらも、無駄に見える行為にこそ楽しさを見出し、そこから新たな価値観を生み出している。

物事に楽しさを見出すという行為は、実利とは無縁のように見えて、実は進化の過程で動物たちが手に入れた重要な能力だ。遊びには、認知の発達や社会性の向上といった役割があるが、その本質はそれだけではない。私たちがいま、なぜ遊びを楽しむのか、そしてそれを続ける理由は、単に「役立つ」ことを超えた、動物としての根源的な喜びにあるのかも知れない。テクノロジーが高度化する時代だからこそ、この原始的な「楽しさ」を再発見することが、今後の人間社会に新たな道を示すのではないだろうか。

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