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高山京子『RebornについてⅠ』

 まず先に衝動的に書いてしまったおれのAmazonレビューを引用しておく。

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 『詩集本を読むことは小説や随筆を読むのとは少し違うくて、眠れない憂鬱な夜やぼんやりとした不安がある時に開きたくなる。読解を必要とする修辞とかは無いほうがいい。発売になったばかりのこの詩集本が今夜はある。日曜日の深夜、僕も一生懸命に生きたくなった、いや、そんな大袈裟なことではないけれども、読んでいると月曜日の朝を「ちゃんと」迎えたくなる詩が『Reborn』にはたくさんある。
以前に人生のやり直しをかけて1600キロの旅をエミリーディキンソンの詩を励みに踏破する映画があったけれど、僕にとって高山京子さんはエミリーディキンソン。そんなことを言いたくてレビュー書いちゃいました。』

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 このレビューを自分で読み直して、綺麗ごとになり過ぎていて、そうではないと思った。高山京子さんはそんなんじゃなくてもっと背徳に満ち溢れていて、おれだけにしかわからないその背徳を書かなきゃと思った次第である。十代の終わりに親を亡くし300万円をサラ金から借りて踏み倒して上京し生きてきたおれと詩人高山京子の共通名はスカーレット•オハラだと無礼なことを承知の上で手前勝手な思い込みを書いておくし、まだ前置きは続く。このnoteの記事はあまりにも非礼で非常識で配慮無き文章なんで、詩に愛着を持つ人、詩人と自称する人、詩の同人とかで活躍されてる人たちには絶対に読んで欲しくない。なぜならば、おそらく、ふんわりとしたもの、かわいいというもの、アンニュイなもの、なんとなくな気持ちを書いてあるもの、あるいはレトリックに長けたもの、古典に精通したもの、そういう「詩」とは相入れない詩があるから。ホントにあるんです。それはきっと詩人にはわからない。おれの独りよがりな詩と詩人についての定義は『私は詩人ではない 』を読んでくれればいい。

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 『Reborn』の始まりの作品は『僕は詩が書けない』である。「詩が書けない」とは先に述べた多くの多彩で誰もが書く「詩」ではないということ。人間を捨てようとするもの、捨てなければ生きてゆけない者が書こうとする「詩の表裏」つまりは、たとえ偽りに終わったとしてもよしとするこの世界で最強の自己肯定の詩があるの。人間を捨てると真実を表す嘘つきになれると、おれは信じている。それはレトリックではない。理知的なものでもなく、誰かが「ほっとする」とか「和める」とかそんな共感というのを望むものではなくて。

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 『ひとでなし』という作品がある。
 悪魔の化身か、究極の善人みたいな人が極稀にいる。いや、特別な人間を示したいわけではない。『ひとでなし』になぞらえれば「誰にでも優しいということは誰にも優しくないということ」という矛盾に自覚的で矛盾を孕んだままに現実を生きようとする「普通の人」に有ること。たとえば営みが破綻する。社会から省かれそうになる。人が追い込まれた時、あるいは人を愛し過ぎてストーカーみたいになった時、人間は完璧な嘘をつくことが可能になる。ブルーハーツの歌の歌詞に「どぶねずみみたいに美しくなりたい」ってあるでしょう?つまりそれだ。もっと云う。真の聖人とは正しい(と呼ばれる!)生き様とイコールではないよ。遠藤周作の『沈黙』のような、棄教する果てにある生をおれは崇高だとおもっているし、スカーレット•オハラだってそう。
 『スカーレット』とタイトルがつけられた作品はとても不器用な詩だ。だからこそ「愛」がとっても歪に異物同士の愛が輝いていて、読むとね、泣くんだ。

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 『Reborn』がオンデマンドの仕様で出される予定だと知った時、支援を申し出て満足される装丁をと、そう連絡しようかと幾度も考えた。けれども、こうやって手にしてわかった。そうだったと思い出した。おれの詩の在り方としての持論、「詩なんて書いてしまったら海にでも流してしまえばいい」ということ。それに最も近いのが『Reborn』だよ。

 それなりに美しい装丁がされた詩集よりも、ただただ生きようとする執念から出された詩は魂そのまんまで、醜い人間の魂。みんな美しい。そうおれは信じているし、業火さえも夕陽に変えることが人間には出来る。風と共に去りぬみたいに。


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 なんか、よくわかんない記事になってしまった。ちゃんと紹介文を書きたかった。けれども高山京子さんへの片思いのラブレターでもいいや。続きをまたこんど書くことにしよう。

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