諦めた、わけじゃない
2020年11月、私は就職活動をはじめました。
3月に大学を卒業してから、早くも3度目の季節の移ろいを感じ始める頃でした。こんなはずではなかった2020年。フリーターである自分の来年を見すえた時、決断しなくてはいけないのは今なんだと悟ったからです。
でも、それを誰かに伝えるのにはいつも少しだけためらいがありました。
「そうなんだ、留学は諦めたんだ。」
その一言が、怖かったから。そして怖い以上に、自分が悩み抜いて出した応えを否定されているようで私は悲しかったんです。
そんな顔をされると、自分が悪いことをしているような気持ちになりました。今まで勇気ある挑戦者のように振る舞っていたのに、嘘をついていたかのような気分になりました。あるいは自由に夢を追う輝きが、結局東京の雑踏の中で代わり映えしない日常に飲み込まれていく気がしました。誰もそんなにしていない期待を、勝手に裏切ったような気持ちがしていたのです。
結局いつも、気分で楽な方に逃げているんじゃないのかな。何かにぶつかりたくなくって、挑戦することを恐れているんじゃないのかな。
この1年、悩んでいる自分のことをちゃんと見てきました。いつだって後悔しないように進んできたつもりでした。今回だって選択肢を増やすためのポジティブな決断だったんです。それなのに、そんな風に自分を卑怯者のように思ってしまうこと自体が私を疲弊させました。
誰かが期待したことに応えられない自分になっていくことは、私の大きな悲しみでした。誰かが誇ってくれるような人間であることが嬉しい優等生病の私にとって、「たいしたことない奴」のラベリングは最も恐れるべきものだったからです。
自分のことを夢や希望を与えられる存在だなんて思っていません。でも、自由に生きてみたいって不器用でも進んでいたり、何歳になっても好きなことを学んでいったりする自分を貫きたい自分が、失われてしまう感覚がありました。
同時に、私は「諦めた」という決めつけと言葉とに、怒りも感じていました。
もともと留学しようかと考え始めたときにも、沢山の人から話を聞きました。そこには肯定派も慎重派のどちらもの意見がありました。
いきなり未知の分野の勉強なんかしないで、とりあえず就職してみたら?社会に出てみたら学びたいことがより明確で深く分かるようになるかもしれないよ。そういった就職を勧めるアドバイスをいただくこともあり、納得もしました。でも最後は自分が今どちらにより燃えるのか、やる気と直感が先で、そこに論理的な理由をつけて決めた留学でした。
就職じゃなくて留学する!と意気込んでいた私が突然決めた就職。それに対して言葉には出さなくても、「ああ、そんなもんだったのか」と伝えてくる目もあったのです。
でも、誰が諦めたと言ったのでしょう。
私は現に生活を支えてくれる家族以外の人に、その決断を評価してほしいと思ってはいませんでした。挫折だとか諦めだとかと土足で踏み込まれる不本意さは、私の最も嫌うもののひとつでした。
今2つ確信を持って言えることは、私は全く諦めていないということです。そして、この1年についても後悔はありません。
これは負け惜しみというわけではなく、やりたいと心が動いた時に何かを決断できているからです。就職したくないと思っていた大学生のあの頃は、今みたいには働く未来に向き合えなかったと思うのです。でも、今は学びじゃなくて働く世界に挑戦したいと、わくわくしている自分がいます。そうやって、自分が向き合いたい時にそれに向き合う余裕をくれた両親には感謝しかありません。
学びたいと思う気持ちは、保育士試験の勉強や日々の読書に向けました。そこで感じる充足感は、教育とは異なる新しい分野で働きたいという新たな意欲も生み出したようです。
そして今度は会社を使って、海外に行きます。
そのために自分のできることはやりきる、見方によってはそのプラットフォームを見つけたに過ぎないのです。
人からは回り道に見えたかもしれないフリーター生活。きっと想定外の時間だからこそ、優等生だった今まで気づくことのなかった焦りや自由を知ることができました。見えていなかった人達が見えたし、知らなかった自分がそこにはありました。そして「やってみたい」と思う未来を描き直すことができました。
世界が回り道をしていた1年に、もしかしたらちゃんと自分を見つけて歩み始めていたのかもしれません。
私の諦めの悪さをなめないでほしい笑。
すました顔して愛も夢も一生追ってやるような、はずかしい理想を語ってやるような、そういうしつこい人間が簡単に諦めたりするはずがないんです。人に諦めたなんて言わせて黙ってるはずがないんです。
家族も友達も、そういう私でも見守ってくれる人ばかりでありがたい。
来年もそんな大好きな人達と笑顔で走り抜けられますように。