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2歳の私は、とっても強気の横綱ガールでした

「まゆちゃんはいま、おどりたくないきぶん!!!」


敬老の日にあわせたおじいちゃんおばあちゃん向けの保育園の発表会で大きな声を上げた私を、祖母はよく思い出すようだった。

0歳2ヶ月ほどで私を保育園に預けて仕事に戻った母に代わり、祖母はいつも私と一緒だった。

絵本もクレヨンも童謡の歌集も、全部祖母が与えてくれた。保育園の送り迎えも祖母で、私は自分の記憶よりずっと前から祖母のことが好きだったと確信している。

私はと言えば、初孫でもうめちゃくちゃに愛情を浴びていた。1月生まれで普通の女の子然とした体重で生まれたくせに、保育園では誰よりもよく食べた。いただきますをみんながするまで待てなくて、そのくせ他の子が残したご飯も全部食べたそう。

よく食べる赤ちゃんVSたくさん食べさせたい祖母である。私は誰よりも急速にデカくなり、身体測定では保育士さんたちに「がんばれまゆちゃん♪」と黄色い声援を浴びていたらしい。親戚から呼ばれたあだ名は横綱。心はプリンセスな2歳の少女にとっては、なかなか不名誉である。


そんな祖母から何度も聞いた話がある。2歳の敬老の日のお遊戯発表会で、祖母はステージの真ん前でカメラを構えていたのだとか。きっと気合いの入ったおばあちゃんのことだから、最前列の真ん中に座っていたに違いない。

なのに、みんなが舞台に上がっても私だけは一向に出てこない。待機場所のイスに座ったまま、しっかりとした口調で先生に向かって「おどりたくないきぶん」だと主張していたのだそう。

大人の都合を考えればなんとはた迷惑なやつだ。保育関係の仕事をしていたこともあるからわかる。進行がうまく行かないのはあるあるだけれど、たまにびっくりするくらい頑固な子どもに手を焼く。

でもその話を聞いた時私は、(申し訳ねえ〜と感じつつ、)我ながら誰にも媚びずに泣きもせず自己主張しちゃって強いな、と2歳の自分を見直したのだった。


私は、自分のことを協調性のあるタイプだと信じてきた。高校時代に顧問と部員の板挟みになりながらも調整役をしたり、バイト先でもちょこまか気を回して可愛がられたりした経験があったからだ。

でも、どうやら違うぞと。私のアイデンティティみたいなマグマの部分が最近ふつふつとし始めている。

保育園のお遊戯会は記憶にないけれど、私はいろいろな「禁止事項」を本気で悪びれずにやってきた。

家のクローゼットのドアに蛍光ペンで自分の背よりも高い絵を描いて怒られたり、習い事の体操教室にどうしても出たくなくて、片道1時間をかけて一人で徒歩帰宅して怒られたり。そういういろんな記憶が次から次へと出る。

かなりパンチ強めに生きて親を困らせただろうなと今なら思う。親、ごめんね。おとなになった私は、ただ外面のいいやつだったのかもしれん。

だから私も変わったんだなと思っていたのだけれど、どうやらそうでもない。自分のやりたくないことはしない!というスタンスが、25歳になってむくむくと私の中に確立されつつある。それはさながら2歳のイスにしがみついていた自分のようで、記憶にないのに思い出せる気すらする。


あまりにも肉のパーセンテージが多いだろうフォルムをしていた赤ちゃんの頃の私は、それでもきっと愛されただろう。

私は年の離れた3姉妹の長女で、だから妹のワガママっぷりにはいつも翻弄されてきた。しかもなんで父はそれを叱らない!?と何度も親に代わって私が怒ってきた。

でも、もしかしたら私も長女なりにわがままだったんだろうな。結局一番苦労のポジションだったのは真ん中かもしれません。確かに今でも奴が一番まっとうだし世話焼きだよなあ。

我が家の横綱は、後にも先にも私だけだった。

たぶんあの時やたらと掴み取った栄養が今の私を作ってくれているのだと思う。

そう思えば、25年後にも落ちない脂肪にも少し愛着が湧くかな。1ヶ月後には水着の予定が見えるのは今日は知らんぷり。



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#こんなこどもでした  という企画に参加してみます!もうこどもの日は遥かに過ぎてしまったけれど、それでも子供時代を思い出した文章は意外と書いたことがなくって楽しく書きました。

糸崎さん、素敵な企画をありがとうございました!


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