見出し画像

掌篇小説『鍵本くんを視ませんか』

 消えた鍵本くん。

 あたしが本をいつ迄も決めかね、ほそい廊下を書棚をウロウロしているうちに、鍵本くんは好きな漫画をさっさとえらんで、行ってしまったのかな。
 鰻の寝床みたいな書店には、厚い本の顔をもった2頭身のキャラクター『ぶっくん』が、子供たちを悦ばせたり泣かせたりしながら歩む。あたしは、『ぶっくん』の中身は汗まみれの鍵本くんでないかと思い、後ろのファスナーをこっそりひらいてみるけれど、靴にでも詰めるような丸めた紙がわらわらと出てくるだけ。手にとると、がさがさして、黴っぽい匂い。
 ひとつひろげると、『吾輩は猫である』らしき頁。

 坂をのぼる。
 鍵本くんと先週行ったカフェに寄る。海外のものだろう、カラフルなガム玉の詰まったガチャガチャとか、掌サイズからラジコンぐらい迄の車、ソフトクリームやハンバーガーのかたちもしくは意味の解らない言葉が踊るネオンサイン、ウォーホルのポスター……そして看板娘の、コーギー犬。『あさりちゃん』てなまえ。前回は私たちのテーブル迄じゃれにきたけれど。今日は眼の彫りがやけに深く老けた印象で、像の如くうごかない。テンガロンハットのマスターに、こないだ一緒にきた男の子、憶えてませんか? と聞くと、さぁね、ちょっとお散歩の時刻だから失敬、と、手伝いの人間もいないのに、私のグラスに氷だけ挿れた儘、出てゆく。連れるのは『あさりちゃん』でなく、ラジコン。ワイルドウイリスが、じゃれるふうなモーター音を鳴らし。いつからか黙々と苛だたしげに、店奥の蒼い土の床を掘っている『あさりちゃん』。穴はけっこう、深い。

 坂をくだる。
 海にそうとう近い筈だけれど、水は1ミリも視えないし、潮の薫りもない。
 なじみの古着屋へ。もともとは銀行だったらしいコンクリート建築の3階。レディースもメンズもごちゃまぜだから、鍵本くんも先々週連れてきた。こないだと品揃えにほぼ変化はないのに、あたしはやっぱり、エナメルやビジューやスパンコールの光だとか、ラリった模様で催眠をかけてくる夏服たちにまんまとあやつられ、触ったり、鏡のまえ、ひらひらさせたり、じぶんも模様の一部になったふうに、ラリって。で、かつて銀行の金庫だった部屋で、試着を。……あの日、来て2分で己のデニムジャケットを択び終えた鍵本くんに、金庫の重い鉄扉てっぴを幾度も開け閉めさせ、何を着ようが似合うよと、金庫に閉じこめたいほどキレイだよと、云わせて。3時間は待たせた筈。さっきのカフェでは、ミニカーを触ってこれ60年代のワーゲンだぜとかなんとか、熱く語っていた鍵本くんを1秒も視もせず、仰向けになった『あさりちゃん』の出っ腹を、撫でてばかりいたくせに。
 女性の店主に、こないだ一緒にきた男の子……と、おなじことを聞いたら、自己催眠か、白ブラウス緑ベストの装いからファルセットの折目ただしい口調迄古参の銀行員になりきってしまっているロングヘアの彼女は眼を剥きながら、ひいぃただいま御用意いたしますので少々お待ちをおぉ、と、声をふるわせ髪をみだし、木製のレジスターとおおきな十露盤そろばんを楽器みたく鳴らし。ほどなくして、警官ふたり飛びこんできて。あたしの両脇へ腕をまわし、ちょっと愉しげに持ちあげた。なりきり銀行員がカウンター下にある非常事態用スイッチを、足で押した様子。

 派出所より解放され(いちおう鍵本くんのことを聞いてみたが、さぁね、ていうかキミ苗字しか知らないの? と嗤われた)。鍵本くんと先々々週行ったモーテルへ。ラブホテルと呼べるほどの飾り気もないところ。204号室に忘れ物を、と城の狭間さまほどのあなに告げると、おじさんのもの云わぬうすいくちびると剃られた青い顎と、逆に毛のモジャモジャざわつく手があらわれ、鍵をあっさりくれた。樹脂でできた、琥珀色のスケルトンキー。それをさし、204号室をあける。ユニットバスとベッドのほかは、鰻とすれ違いも適わぬほどの部屋。ベッドでは効きすぎた冷房にちょうどよい位、お熱いお遊戯のさなか。しかし女のほか、姿が視えぬ。布団は膨らんでいるのに。どうやら男は、透明らしい。鍵本くんにそんな能力があるのかと疑ったが、ゴールドのチェーンと頭蓋骨のリングと局部ピアスらしきものが浮き、ゴロワーズの匂いがしたから、鍵本くんではない。あたしは隠れようもなく少なくとも女には気づかれていたが、咎めてこなかったので、しばし観察。女は衝動と情熱のみならず、丹念に、真摯に、お遊戯する。透明男にお任せでなく、レスリングさながらの無我と冷徹さ、夏の交尾ののちメスがオスを喰らう蟷螂かまきりに近い狂おしさで、上下左右東西南北、ながい手脚、しなやかな胴の位置をかえ、幾つもの技を駆使。上腕が、アキレス腱が、腹が背すじが乳房が、眉が髪が鼻孔が、もはやお遊戯などと呼べぬ『闘い』に、勇ましく張りつめ、ふるえ。漏らすのは単語にならぬ喚きと、ふかい吐息のみ。透明男の身につけたゴールドが、結局は女の勲章となり、随所で煌めき……
………あたしは? と、ふり返ればあの日、むろん筋繊維のひとすじもうごかさず、殺人現場のしかばねみたくベッドにころがってただけだし。そのくせ、ベッド側にティッシュもおいてないの? 壁にヒビあるよ震度2であたしたち死ぬね? などと、小鼻を小指でかきながら零して。

 鍵本くんと先々々々週行ったバーへ。海と、椰子の木ならぶ砂浜に佇むオープンカーの画が飾られているけれど、こんな光景を視たことはない。
 カウンターに、おなじサークルの四月朔日わたぬきセンパイがいる。彼女の腰を抱く不透明な男も隣に。彼もおなじサークルだと思うが不透明。マルボロが匂うし、鍵本くんではない。四月朔日センパイは、眉はゲジゲジだし面長で鼻も間延びしたふうだしプラムみたいな赤すぎる脣を半びらきにし歯列矯正の金具を視せているしフレンチスリーブから骨だけの腕を垂らしているしウェービーの枝毛が枝毛になってるし。そんなでも、サークル内外の男をひと月から数ヶ月の間隔でとりかえ、付き合っている。モーテルの女よろしく色恋への覇気や宿命があるふうでなく、かならず男から、彼女に涎をたらし、縋りつく。その習性や仕組みは、同性には理解不能。鍵本くんが、脣まわりをプラム色によごした虜のひとりかどうか。いちおう、鍵本くんを視ませんか、と聞けば。
………彼なら、今ごろ海に飛びこむのではないかしら、夏ですもの。砂浜なんてない都会まちの吐瀉物でけがれた海だって、いいえ、寧ろ穢れているからこそ、欄干でも有刺鉄線でも、防波堤でもポートライナーの窓でもこえて飛びこむわ、彼なら。
 知ったふうなことを、気まぐれに生れた夏の冷風みたいに呟く。ぼたんのような黒眸こくぼうと、歯の金具をひからせて。すこしも笑ってはいない。

 あたしは海でなく、山へゆく。ロープウェイに独り乗って。終着駅の展望台から、カラフルなガム玉よりスパンコールより麗しい夜景を視おろす。このなかに、本屋の『ぶっくん』も、カフェのワイルドウイリスもコーギーの『あさりちゃん』も、古着屋のなんちゃって銀行員も、モーテルで透明男と闘う女も、四月朔日センパイも………そして鍵本くんも、いるだろう。鍵本くんのアパートは市内西部にあるし、遠くへゆくお金なんてない筈。海におちたとしたって。
 星の光を地表にゆずり、両手の爪をたてたら剥がれそうなほどのっぺりとして、他人事めいた空。海も此処から視るぶんには同様で、境さえ知れず。
 砂浜の画を飾ったバーで四月朔日センパイにあんなことを云われたからか、それ抜きでもそうなのか、天邪鬼にキライと背を向ける相手みたいに、海を気にかける。何故かな。人間はもともと海にいたから? 中学の臨海学校以来泳ぎもいかず、潮の薫りも波の感触も忘れきってるくせに。
 トートバックがふるえ出したので視ると、本屋で買った雑誌のグラビアから立体となり顔をだした、ロシアンブルーの猫。本屋で立ち読みした際にもあらわれ、鍵本くんが手をだすとひっ掻かれたが、あたしには妙に懐いた。だから鍵本くんは気分を害して消えたのかな。そういうことにしておこう。それだけのことだと。
 ロシアンブルーはエメラルドの眼で懐くと云うより懐かしげにあたしを視て、銀のからだを、あたしの首に巻きつけた。街とちがい山の夜風はすこし肌ざむいから、よかった。オスだった。
 のち、銀の衿巻はあたしから降りたかと思うと、夜景とは反対側、森の暗闇に、消えた。闇と云えど空よりもテクスチャーのグラデーションはあり、そのなかでもいちばん、ぬめるような闇に。『あさりちゃん』が床に掘った穴の底も、『ぶっくん』のひらいたファスナーの奥も、あんな色だった気がする。鍵本くんがあたしをもし、灯を消した金庫に閉じこめたとしたら、その色も? 鍵本くんがもし、無愛想な空の鏡でないほんとうの海に魅せられ飛びこんだとしたら、その色も?
 あたしの掌に、鍵。琥珀色の。モーテルで返すのを忘れて。平べったく、あたしでも造れそうに、単純なかたち。あたしはそれも、なぜか鍵本くんとおなじ、鼻を寄せるとマイルドセブンの匂いするそれも、闇にほうり投げた。あたしは10センチ先のゴミ箱への丸めたティッシュさえ外すから、モーテルの部屋で鍵本くんに揶揄からかわれたけれど。鍵はまるで、べつの世へと吸われるみたいに、きれいな弧を描き、消え。





©2023TSURUOMUKAWA










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?