短篇小説"TYPHOON"
朝、カーテンをあける。
空はパールグレイ。ふるえる硝子戸2枚を、両手でおしあける。裸に、風をうける。黒い鋼で咲きみだれるやわらかな薔薇を象った欄干のむこう、赤を基調とした街、かわいた瘡蓋みたいな街がひろがる。ここより高いところはない。広大な瀧のようにふくよかな雲が、水なき水をそそいでいる。台風がちかいと、ラジオが言っていたような。
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あたしが屋敷をでて、どれぐらいになるか、もう年を数えていない。ハイスクールから、独りで棲みはじめた。寮なんて死んでも入りたくなくて、坂のてっぺんにあるアパート。あたしには原因不明の脚の痛みがあるけれど、車の送迎を断って、歩いた。………坂をのぼってもおりても、つまさきから腿まで電流のはしる痛みのほか、何があっただろう。誰も覗けない高みにいるけど部屋のカーテンは閉じた儘、ランプひとつの灯をたよりに、テーブルに山積みにしたチョコレートの類いだけを毎夜、朝までに平らげていたことと、入学から一日とあけずアパートまでつけまわしてくる男子を99日目にプールに沈めたことと、『パパは権力者なのよ』って盗みやらドラッグやら放火やら下級生レイプやら好き放題ふるまってた女子を、もっと権力者だったあたしの父さまに社会的に抹殺して貰ったことぐらいしか覚えていない。
学校より、美容院がもっとキライだった。あたしの天然の赤みがかった髪を、褒められたり触られたりするのが誰であろうとイヤだった。屋根や壁を暗めの赤にするのが義務づけられたこの街で、何故に珍獣扱いされるのか。触る指は10本しかない筈なのに、無数の虫が髪を喰い尽くそうと這っているように思えて、あたしは数分と堪えきれずクロスも被ったまま、その場を逃げたと思う。
あたしの姉さまは、職などつかずとも良いのに「ひとの髪に触れるのが好きだから」と微笑み美容師になった。あたしの髪はずっと姉さまが切っていた。あたしだけと思っていたのに。重いラードをぶらさげながら軽々と毒ばかりを吐く老害どもや、落書きで描ける顔と不釣り合いにきつい香水みたいな媚態をふりまく雑魚などといった、どんな愚民の、パサパサやギトギトの毛にでも触るだなんて。ショックで絶交したけれど、美容院もダメだったあたしは、容赦なく顔を埋めてゆく髪に堪えきれず(あたしはピンもゴムも大キライ)ダイヤルを回し、姉さまを部屋に呼ぶか、あたしから夜か朝にチョコレートウエハースやマカダミアチョコレートや珈琲チョコレートボールの大袋なんかをもって石畳の坂をくだり、姉さまの棲む部屋へ予約もなくおしかけてゆき、鋏をいれさせる。屋敷にいた頃より脚の痛みはましているし、姉さまを赦してもいないあたしは、ひと言も口をきかなかったけれど、姉さまはいつでも微笑んで、「あなたの髪は、朝陽があたるともっと美しくなるのよ」と、うっとりするのか眠いだけなのか、眼をほそめ髪を抱くように撫でた。あたしの頬ばりつづける菓子の屑もきれいにはらい、口もとの穢れも花弁にでも触れるようにやさしく浄めながら。やはりあたしの髪に触れるのは、姉さまだけだった。姉さまの、漫画みたいに丸っこくて、そのわりに厨房メイドぐらいかさついた指。あたしは父さまの第二夫人の、姉さまは第四夫人の娘で、ごった煮みたいに子どもという子どもが育てられた屋敷をあたしはもう思い出せないけれど、姉さまの指があたしの懐かしい家みたいなものだった、かも。
あるとき姉さまに例の如く電話したら、姉さまの婿が出た。「久しぶりに会いたいな」と言われ、会いたくばそっちから来い、と返したら5分と待たず、すずしい顔でやってきた。坂を駈けのぼったのでなく、車をとばしたのだろう。愚民が。あたしの咥えているチョコレートバーのさきに、喰いついてきた。リズムを揃えるようにがつがつ齧りあって、やがて互いの唇と舌をむしゃぶりあった。チョコレートの味がなくなるとあたしは婿をつきとばし、生地が見えないほどチョコレートを塗られたクロワッサンに手をのばす。その間に婿はウイスキーボンボンを口にいれながらあたしのカルダンのネグリジェを捲りあげる。そんなことあんなことが繰りかえされ、隈なく晒されたあたしの躯が、チョコレートで泥まみれみたいになってゆく。「……こんなに菓子ばかり食べていて、どうして君は綺麗なんだ? 海の泡となる筈の人魚が、陳腐な恋などふきとばし地上に逞しく生きのびているかのようだ。清水に洗われるより、穢れるほどに美しい、なんと不思議で、なんと罪深い……」とかなんとか、ボンボンを口一杯にしながらモゴモゴ言う。あたしの赤い髪にだけは触れなかった。愚民にもそれぐらいのデリカシーはあるらしい。あたしは味覚の延長みたいに婿との行為を味わった。この部屋に棲んでから誰のものやらおいてあり点いた儘のラジオから裏声の、ラ行の発音が妙に淫靡な女が、『道路の流れはスムーズです』と伝えていた。
姉さまに髪を切らせるのと、婿が来るのと、しばらくは交互にあったと思う。やがてぷつりと、終った。電話をかけても出なくなり。家を訪ねると誰も住んでいなかった。父さまにさえ聞いても知らぬふり。姉さまもあたしとおなじ権力者の娘であるのを、すっかり忘れていた。姉さまは無言であたしを、切った。婿はきっと海に沈められ、泡でなく何かの餌となっているだろう。
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あたしの髪は切られぬ儘、どんどんのびた。尻をかくし、やがて地につき、それでもまだのびた。石畳の坂道を、悪化する一方の脚の痛みとともにおりるにせよのぼるにせよ、髪をひきずらせ歩くようになった。赤い、東洋の花嫁みたいなヴェール、またはレッドカーペット……などと形容するにはあまりに禍々しい、ずるずると、呪詛にまつわる儀式めいた趣。
ハイスクールも終えるか辞めるかしていたあたしは、変らず菓子を買いに夜だけ、歯を食い縛り、無言の雷に撃たれるような痛みを堪え何事もないフリ、素のながい下腿を晒しジョルダンのヒール靴をならし、うすく笑みさえ浮べ歩いた。それは誘惑でなく、真逆に威嚇するためだ。あの婿だって、あたしが姉さまへ見せた弱さを嗅いで喰いついてきたのだから。いつか会ったメゾンのマヌカン、ひと言でも喋ると歯茎が出るしザ行の訛りもきついが、服を纏い歩いてみせる際の、近づけば結界に弾かれそうな、精霊か妖魔の如き有り様を、まねした。
が。そんなあたしの思いと裏腹に、のびるほど癖がでてうねる髪に、あらゆるものが、からみつきはじめた。落ち葉、チラシ、手袋、傘、花壇のナルキッソス、テニスボール、猫、スナックのネオン看板、痩せほそった女、酔いどれた男……
留まらず生えゆく髪は、もはやあたしと繋がりながらも別の生き物であるのだろうか、何がからまろうが乗ろうが、嫌悪感どころか1グラムの重ささえ覚えない。
ただ、帰宅して、髪についたそれらを片づけるのは面倒。片づけると言ったって、ただ髪からはがして、そこらに放り投げるだけだけど。あたしの部屋はアパート最上階のワンフロアごと、柱も壁もぶち抜いているのだが、あたしは端から端まで行ったことは一度もないし、近眼だから奥がどうなっているのかも知らない。あたしはチェスの盤なら闘い甲斐のありそうな二色模様の床のぼやけた果てへ、テニスボールを投げてみたり、不動産やキャバレーのチラシを紙飛行機にして飛ばしたり、気儘にうろつく猫の鳴き声が響くのを聴いたり、『ブランシェ』という名前らしいスナックの看板にコンセントを繋いで、ブランシェのくせに青い光を光らせてみたり………女は、なぜか痩せぎすの、若いのか老いているのか不明瞭な幽霊ばかりで、ひと言も口にせず、たかい天井の闇から垂れたブランコにでも乗っているように空(くう)に座って、やぶれた傘を物憂げにひらいたり、プリーツスカートを風もなしにひらひらさせている。ひとりだけおりてきて、眼の瞬きも忘れ小声で「オメサドコサイク酸とキッチンキトサンオトミ酸が動脈を護るわよ」「食べてすぐ寝ると牡のバイソンになって、もっとつよい牡のバイソンに肛門で性交されるわよ」「葛飾西斎、って御存知? ギャラリー教えるから買っときなさい。3年で10倍の値がつくわよ」とか、死んでるくせに節介か指南か勧誘をしてくるのがいたけれど、チョコレートがけのポップコーンを鷲掴みで食べぼろぼろ散らばすあたしに舌打ちして、死んでるくせに「あいたたた」と腰を曲げながらやはり天井に行ってしまった。いちばん厄介なのは酔い潰れた男。猫よりもなれなれしく、あたしの赤い髪を毛布にして寝ている奴も、あたしの躯に触れようとする奴も、厄祓いの縄のようにふとく捻った髪で、首をしめあげた。マヌカンの立ち姿だけで妖力を放てなかった憤りも手伝い、つよく、つよく。時には、チョコレートとともに摘まんで嗜んでみたいとうっすら思える男もいたが、「食欲と性欲は共存すまい」等とのたまいあたしのチョコレートをとりあげようとするし、よく見たら喉仏や肩幅、腕の力瘤のかたち、胸から股間へかけて毛が織りなす模様が姉さまの婿に似ている気がするのも忌々しく、結局は首をしめた。カーテンの隙間から零れる朝陽でピンクにかがやく髪に巻かれるのを悦ぶ風に、恍惚の表情で息をとめる男たちは皆、黒っぽい、あるいは白っぽい、生きているときよりやや荒削りな造りの石像となる。妖力がようやっと、はたらいた。石だから、重たくてうごかしづらく、チェスの床に、駒みたいにおいておく。ひらいた口に、ナルキッソスを挿す。
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テーブルとチョコレートと電話とラジオ、脱ぎちらす服と靴のほか何もなかった部屋が、チェスの盤だかジャングルだか墓地だか粗大ゴミ置場だかサーカスだか、眼を遣る場所により印象の変る、混沌とした場所になってゆく。男の石像は今や数十体、チェスを闘っていて、女の霊は8人、天井を舞っている。猫は仔を産んだらしく、あたしの育った屋敷よりも複雑に、誰と誰の仔だかわからないのが、あっちこっち駈けまわり、寝そべる。男や女の膝にのるのもいる。牡どうしの性交で世にも切なく不穏な声をだすのも見られる。仔猫のなかに一匹、体毛がまったく生えず、人魚のような青い鱗の肌をもった仔がまざっていた。頭から尻尾まで青く艶めき、男の石像などより遥かに緻密で、みごとな造りだった。なぜか、その猫がいちばんあたしになつく。と言っても、いっさい触れてはこず、金色の眼でこちらを見るでもないが、あたしの近くにかならず居る。スフィンクスのように、伏せ気味だが首を誇らしげにたかくもちあげ、居る(その仔はチョコレートのスコーンやドーナツをよく食べる)。あたしはワインゼリー入りチョコレートの3箱めを食べながら、ロブスターがおおきく描かれたスキャパレリのガウンで寝そべりながら、ぼんやり思う。地上にあやまって産まれ、砕けそうな脚の痛みと蝋細工の微笑みをともない歩くあたしが、ほんとうにほんとうは人魚だったなら、この仔猫のような煌めく青い鱗をもっていたろうか。鱗は尾鰭は何時、何処でなくしたのか。婿の言うとおり、あたしが愚民より愚鈍な王子に恋して、いかれた頭で阿漕な魔女にすがる筈なんかない。誰があやつるのかテニスボールが何処かではね、ふわり紙飛行機がよこぎる。石像の口には季節の花をてきとうに挿していたが、蔦の類いもあったらしく、気づけば緑が壁を天井を果てまでおおい、匂いたつ。ネオン看板も殖えて、昼も夜もなく部屋のすべてを、何ともつかぬ複雑な化合物の色に染める。あたしの髪の赤と、仔猫の鱗の青だけは、亜空間の代物であるのか外光も銃弾もとおさぬ硝子ケースにでも護られているのか、その儘、浮いている。
未だについた儘のラジオから聴こえた、世をせせら笑う文化人きどりな、ナ行の発音が脱力している男の話。『むかし、役者や歌い手や司会者の滑舌を鍛える為の、早口言葉のテキストがあったんです。あった、と言うのは、すぐに廃番となったから。いちばん難しい早口言葉が最後の見開きの頁に載っていて、それはもはや言葉というよりも、舞台で数分かけて言う長台詞のようなものらしいのですが……それをつっかえずに言い切ると、呪文となって、何らかの効力を顕してしまう、って言うんです。まぁ呪文って、いくらなんでも大袈裟だと思いますけども……世の中でひと握りの人間しか口にできない文面……小咄か物語的な性質のものか、わかりませんが、何にせよわれわれ聴衆からすれば、心の何処かを善くも悪くも刺激する波動をもってることは、違いないのでしょうねぇ。じっさい、どこかの役者が舞台の本番でこの台詞を言いきって、それから大量の血を見る事件に発展したとかしなかったとか、噂はされていますが………』あたしは蔦にぶらさがった電話をとり父さまに繋がる番号をまわした。廃番のテキストは実在すると判り、入手させ、アパートに送らせた。あたしは父さまにも姉さまにもボソボソした声か、内容のわからない叫びしか発したことがないので、犬に論語とでも思ったのだろう。ところがあたしは実は滑舌がすこぶる良く、"compiled by Seisai Katsushika"とある茶色く灼けたテキストの最後の頁をさっさとめくり、いとも簡単に、歌う調子で読み切ってしまった。呪文、なのか、あたしの歌声が部屋に、ホールの如く反響する。すべてのものが一瞬、輪郭をぐにゃりと波打たせた。
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朝、カーテンをあける。
空はパールグレイ。ふるえる硝子戸2枚を、両手でおしあける。あたしはいつ脱いだやら、はじめから着ていなかったか、裸で、風をうける。バルコニーにも男たちの黒や白の石像がころがり、蔦がはしる。黒い鋼で咲きみだれるやわらかな薔薇を象った欄干のむこう、赤を基調とした街、かわいた瘡蓋みたいな街がひろがる。ここより高いところはない。チョコレートさえあれば何も要らなかったけれど、愚民たちとおなじ高さにだけは棲みたくなかったから。広大な瀧のようにふくよかな雲が、水なき水をそそいでいる。『この国に大型の台風が直撃するのは、実に27年ぶりのこと……』と、さっきラジオの天気予報で、発音がオの段に偏りがちな女が告げていた。
あたしは手に、何処からか、銀の鋏をもっていた。姉さまが使っていたものかどうか覚えちゃいないが、泉から賜ったばかりのようにかがやく。あたしは朝陽に染まりきったピンクの髪に、刃をおしあてる。千年生きた龍の鬣ほどに強靭だった髪が、粉のようにさらさらと千切れてゆく。
髪をおとしたあたしは薔薇の欄干に手をかけたのか、風に浮かされたのか、地にあることさえ苦痛だったかかとが、つまさきが、ふわり浮いてゆき。分刻みで厚みをましコントラストをつよくする雲の飛泉が、かわいた瘡蓋だと見おろし見くだしていた赤い家々が、黒の薔薇が、あたしの視界を上下、左右、ななめに、ころがる……嗚呼ちがう、ころがっているのは、台風に浮かされ舞わされているのは、あたしの躯。コンテンポラリーを踊るように反り返っているのか、胎児みたいに丸まるか、乳房が、肘が、臍が、腿が、指さきが、己の何処に位置しているのか、雲の瀧を泳ぎのぼるのか、瘡蓋の街を突きやぶり黄泉へと堕ちてゆくのか、何も、わからない。すべてがあたしを壊しそうに近づいては、他人の顔にもどって遠のくのをくりかえす。みじかくなったピンクの髪が、頬であそぶ。
バルコニーにもついてきた、青い鱗をもつ仔猫は、おそらくあたしを、斬りおとされ宙にちりぢりになっているだろうピンクの髪を金色の眼で見つめ、水に浸ったばかりみたいに鱗を光らせる。あんたはいつか、あたしよりおおきく、しなやかに育って、ピンクの鬣が、凛々しい鬣が生えるよ。猫みたいに街に居ついたりなんかせず、何処へでも、ゆきたいところへ翔けてゆける……でもゆきたいところなんて、とうに決まっているわよね? ……あたしは己のことさえ行方不明なのに、預言みたいに、そう呟く。
姉さまにすこし似た霊の女がひとり、薔薇の欄干に漫画みたいな丸っこい指をそえて座り、傘をひらきスカートを靡かせ、うっとりするのか眠いのか眩しいのか、眼をほそめていた。
あたしは益々、風に泳ぐ感覚に近づいていたけれど、まだあたしには、冗長で鬱陶しい二本の脚がついているの? それとも肌に人魚の鱗を甦らせて、尾鰭を悩ましくうねらせ、はねているの? たしかめたくとも、眼にうつるのは、もはやあたしのものか否かもわからない、白くまるい乳房に、亀裂をはしらせるみたいに流れひろがる、融けたチョコレートクリームだけ。
©️2022TSURUOMUKAWA
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