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掌篇小説『愛の造型(モデリング)』

マンションで昨夕、ガスか薬品か知れぬ煙と臭いが充満し、非常ベルが鳴り住民が避難する騒ぎとなった。

年寄りたちがエレベーターを占拠していたから、私は部屋に夫はいないに決っているがいちおう確かめたのち独り、ハンカチで鼻をおさえ階段をおりた。甘すぎる菓子にも錆びた鉄にも、ガソリンに薄荷をまぜたようにも感じる、ひんやり白い空気の渦を。

道中、みじかい髪の女性が担架ではこばれゆくのを視た。その辺りで臭いが濃密だったので、発生現場の住人と思った。私と似た年頃か、蒼い顔をして眼をふせ。ゆたかな睫、額に添える妻の証を光らせたほそい左手、指の影が、状況と裏腹に、音楽を奏でるように蠢き踊っていた。

臭いは、粘土作家である住民の男性が、工程に於て色や質感を浸透させる役割のスプレーを何本も、何十本も? 使用したのが原因であると判明。私が視た女性は男性の妻で、無理心中の噂も流れたが、唯臭いがきついだけで命に障るものではなかったと。当の男性はケロリとしていたらしい。

昨日が嘘みたいに風も穏やかな午前。気にかかり、階段をおり、例の部屋へ。ドアが無防備に開いた儘だったので、のぞく。

あの妻が、横たわっていた。 否、妻本人ではなく、おそらく粘土でできた妻の頭が、うちとおなじ間取の三和土とフローリングによる5畳程の空間をグレイに占めていた。首より下も先のリビングや個室、台所、風呂等にどうやら収まっているようだ。 信じ難い。おおきさも、粘土による立体像であることも。着色は殆どなく、銀幕でモノクロ女優を観るが如く、克明に眼前に迫っていつつ、霞がかって儚げである。もう分解しない限り外へ出すのは不可能な、ムダな巨體きょたいでありながらも、遥か去りし日の追憶か、そもそも実在せぬ幻影であるかの如く、凝視する程に遠ざかり、泣きそうな位、せつない。異臭を撒いたスプレーがこの効果を生んだのか? 像は昨夕倒れていた時と似た様子でふし眼がちで、睫と、頬にかかる髪が蠢く気がした。

深更、うちの夫が酩酊し帰った気配。
この辺ならあの女性の脚があるかしら、と想像しつつ、奥の寝室を視る。スーツもその儘、鞄まで仲よくベッドで熟睡する、9日ぶりの夫。凝視する程に遠ざかり。しかし知っている酒と知らぬ香水とが、昨日のスプレーとちがい実に単純明快に、鼻を脳をつく。私は台所から俎と包丁をもってきて、悪さする夫の指をトントン切りおとす。ぜんぶ。

褐色のソーセージみたいな指十本もふくめた可燃ゴミの袋を、出しにゆく。高みで、何か割れる音。視ると、例の部屋のリビング窓を破って、女性像の左手が突き出ていた。硝子のこまかな破片を纏わせた爪、音楽を奏でるようにくねりのびる指たち、そしてリングが、月夜に美しく。

夫の替りの指は、私が紙粘土で造っておいた。図工が下手ゆえ粗いけれど、元々女を惑わす割に不恰好な指だから、あんなもので良い。明朝には固まり肌にもリングにもなじむだろう。





(1200字)

©2023TSURUOMUKAWA
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先日開催されました春ピリカグランプリ・テーマ『指』に応募しなかったもうひとつの『指』噺です。
どちらを出すか決めかね5人の方に読んで戴き(その節はお忙しいところ感謝です……)。結果は『夜の指』4票、『愛の造型』1票でした。
アナタはどちらがお好み?


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