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掌篇小説『珈琲とブラとあなた』

『珈琲とブラとあなた』ってパンクロックの曲が、ちょっと売れている。アーケードの拡声器から、流れてる。ソウさんがあるいたアーケード。

◆◇◆

 ソウさんは、
「珈琲で染めました、僕が」
 という、濃いブラウンのブラジャーを、インスタント珈琲より多少高級、ぐらいの薫りとともに、じぶんの裸の胸につけていた。出会った夏は上半身ブラだけで、冬が忍び寄ってもコートのみ羽織りボタンを留めず、その珈琲色のカップふたつ、ややくたびれたドライフラワーみたいなレースをけして隠さず、何処でもあるき。惰性なのか、もしくは何らかの誇りをもってか。

 細身、か。骨が浮くほどではないけれど、逞しい色っぽいもしくはだらしない肉があるでもなく、田舎の道路地図みたく胴や肩や腕のラインが流れゆき。顔だけは近くのローカル銀行玄関におかれた幾何学オブジェみたいにおおきくエラが張って、一重ながら面積のある吊り眼が印象深くて。肝心の? 白白と平たいソウさんの胸に、サイズがぴったりというべきなのか一分の隙もなく紐もカップもはりついた『珈琲ブラ』にあたしは、惑うことは初めからなかったように思う。いま考えると変だけど。

「日曜、いきましょうか」
 木曜の夜にアパートの黒電話が鳴り。酒も煙草も嗜むていどなワリに、ひび割れなかば音階をうしない黒ずんだ声。受話器ごしだとなお、地獄から救いをもとめるふうな。

 ふたりでアーケードをあるき、駄菓子や庖丁や呉服や中古レコードなんかを冷やかしたりほんとに買ったりしたときも、誰ひとりソウさんの、『珈琲ブラ』という恰好に頓着もからかいも嫌悪も(かと云って礼讃も)せず、寧ろなんでもよくってて、物腰もやわらかな彼は愛されていた。
 駄菓子屋の、子供たちが恐れるお婆さんと座って、
「昔このへんは男はヤクザ、女はパンパンばっかりだったわよ。朝になると連込み宿から一斉に出てくんの」
「そうですね。でも行商人のおばさんもいたでしょ。野菜とか」
 なんて同世代みたく茶飲み話をしたり。
 指が一本明後日に向いた庖丁屋3代目店主の、
「14で家出して先代のとこ転がりこんでさ。殺されるから帰れねえしよ、どんな厳しくても怪我しても辞めらんなかったよ」
 という苦労話に、
「食材の細胞を壊さぬ鋭い切れ味と優しさ……技術もお人柄も父子のように継がれていますね」
 なんて泪したり。
 呉服屋のもっとも高価なかすりをかるく触れただけで視抜き。
「いっけん地味やけれども、素材はトルコの最高級シルク、気が遠くなる手業てわざだっせ。お兄さんよう判りましたな」
「曾祖母の記憶が、着物の手触りとともにありまして」
 なんてはにかんだり……いずれも、ブラ姿で。

 ただ、『よく識ってる』ことへの自負は人一倍つよく。戦前のものを多く揃えた中古レコード屋にて、
「秋風亭秋團治の録音盤は比較的多く出回っていますから、そう値はあがりません。コレは盤の状態が良いとも、言い難い」
「鈴木万夜子は帝都音大を中退しています。クラシックと流行歌のはざまをゆく声が、欠点とも魅力とも視做されますね……ま、さ、か、御存知、ない?」
 とかなんとか、傾げ気味のギョロ眼と右口角を僅かにあげたうすい脣で云って、ほかのマニア客を威圧し、激怒した相手に胸倉……というか『珈琲ブラ』の胸を掴まれそうになったところを、合気道かなんか、浮かすように跳ねとばし、とばしたさきにあった店自慢の手廻し蓄音機を半壊させてしまう……なんていう騒動もおこした。私が直視しているだけでもトラブルはこの一件に留まらず……云う迄もなかろうが、すべてブラ姿で。

 ソウさんとは、いちどだけセックスをした。いつものアーケードの脇にあるからか、じぶんの家を視られたくないか、あたしのアパートで。
 まさかあたしがはじめての女ではなかろうが、さぐるように脣をかさね、乳房に触れ、元よりおおきな眼をいっそう視ひらき鼻孔をふくらませ、すべての部位を『点灯よーし』と指差喚呼する電車の運転士よろしく確認し、それから交接……
 ベッドに15分もいなかったと思う。近くの路線が始点から終点に辿りつくていどの、時間。アーケードのどの店にいる時間より、儚く。
「満たされました」
 と、射精していない筈の運転士は微笑みもせず云い、トランクスを服を着はじめた。
 云う迄もないと云うべきか、このシチュエーションでも、毛のうすい白白としたペニスを勃たせているときでも、『珈琲ブラ』は、終始つけた儘だった。唯、いつもより距離の近いブラは、ほつれ糸も視えるのに、旧く錆びた鉄筋みたいにも映り。

 あたしは、あのブラがほんとうは珈琲に染められたのでなく、ソウさんの両胸に実はあながあいており、鉄筋のブラがそれを塞ぎ護っているのでは、と、はんぶん空想、はんぶん推理。
 孔の向うには、エスプレッソよりも濃く苦い液が、浄められずもてあました血の如く揺蕩い、左右の胸を、からだじゅうを旋回するのでないか……と。

 そんなだったワリに、あたしが顔から爪先まで肌に紅い斑点のでる流行り病に罹ったときは、
「キヌちゃんにはやく会いたいですはやく会いたいです」
 と、甘えた電話を曜日とわずかけてきたけれど。

◆◇◆

 ソウさんは、勤めさきで横領をした。二千万だか三千万だか。あたしは会っていないけど、木曜の夜、黒電話は鳴り。
「これぐらいの金、なくなっても会社は痛くも痒くもありません。株も好調ですし。でもいまの僕にはかけがえないのです。還るために」
 と。
 あたしは、横領云々より何よりまず、「ねぇ、いちども泊ったことないし、来週の連休、何処か行きましょうよ」とねだったとき、「こんどの連休は社員旅行にいきます」と断られた、勤労感謝の日の前週木曜の電話を思い出す。
「社員旅行って。毎日顔つきあわせてる好きでもない人たちと旅して何が楽しいのよ?」
「これも仕事のうちです。職場の人間関係を良好に円滑にする為です」
「仕事とあたしとどっちが大事なの」
 また全身斑点になりそうなぐらいテンプレートな台詞を「の」迄吐ききらぬうち、
「仕事です」
 と、ソウさんは答え。
 あの時もこの時も、胸倉を、珈琲薫るブラを掴み、ドライフラワーのレースごとちぎってやりたいと思った。たとい鉄だとしても、曲げられる怒りの怪力もしくは融かす妖力がたぎる気がした。ブラの封印を解かれたソウさんの胸の孔からどす黒い珈琲がダムの放水の如く溢れだし、ソウさんと15分過したアパートや、ソウさんとあるいたアーケードの駄菓子屋呉服屋レコード屋、ソウさんに似た顔の銀行の幾何学オブジェを、黒く沈めてしまうとしても。
 地獄から救いをもとめるふうなのは声色だけで、ほんとうにあたしに救われたいとはカケラも望んでない。口惜しかった。この手でブラを掴めないことも。

 あたしも警察に呼ばれ聴取をうけた。ソウさんの同級生だか先輩だかが刑事で、
「あいつは昔から、成績も生活態度も良好だったけど、なんか妙なことで問題児のブラックリストにも載る奴だったよ。『ブラ』だけにな」
 なんて可笑しいのだか懐かしいのだか、セブンスターの煙とともに吹きだし。『珈琲ブラ』はひょっとすると私にだけ視えるものかと思っていたが、希望みたいな推測はホックみたいにはずされ、失笑。
「彼が珈琲を一滴も飲まないの知ってます? ましてブラックなんて。『ブラ』の癖に」
 と、なんの反撃か不明なことを云おうとして、やめ。
 ソウさんの会社も訪ねたけれど、
「困ったもんだねぇ」
「いい子なのにねぇ」
「何処行ったかねぇ」
 と、飼い犬の鎖はずれて逃げちゃったねぇ、ぐらいにしか認識されていないぽかんとした様子が、腑におちぬような、やっぱり、と合点がゆくような。
「彼は、ブラで出勤していましたか? 社員旅行の写真はありますか?」
 と、聞こうとして、やめ。

 愛されていた?
 それとも、何とも思われていなかった? 架空のキャラクターみたいに。
 ギョロ眼でエラ張ってて、その頭が重たかろう心許なく姿勢わるい軀に、ブラをつけたあの男は。

 あたしの裸を、車両というより異星人でも探るふうになぞっていた、「寧ろお前だよ」と歪な六角形の顔を張り倒したくなる、あの男は。

◆◇◆

「還るために」
 ソウさんは云った。最後の電話で。
 ほんとうに、何処行ったやら。ブラした儘。

 ひとりあるくアーケード。
 下着屋でレースのブラを漁っても、ソウさんのものとどれもおなじに視えて、どれも違う気がし。
 アーケードを抜け、星ひとつない空を視あげても、ソウさんの胸に揺蕩う珈琲は、こんな色じゃない、と思う。もっと黒くて、もっと存外、俗っぽい。

 ソウさんが逃亡先で死んだというニュースが、ラジオから流れたかもしれないし、最後にアナウンサーが「おあとがよろしいようで」って云ったから、あたしがうたたねの夢で聴いただけかもしれない。

◆◇◆

 誰がつくったやら『珈琲とブラとあなた』というタイトルのパンクロックが、ちょっと売れているのは事実であるらしく。
 レコード屋でソウさんに聴かされた鈴木万夜子の歌声に似てキンキンと甲高い、歌詞を読みとれぬ女の叫びが、部屋を、ブラをつけていないあたしの乳房を震動させる。




©2023TSURUOMUKAWA










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