掌篇小説『綺麗な腕』
初夏を聴く。
それは、もともとは旧い歌だが。いま壁の向こうから薫りのように漏れ聴こえるのは、歌を排した楽器だけのバージョン。こんな場所にはありがちな、耳心地のよい、云いかえれば右から左へすり抜けるようなアレンジ。
でも実友里は、この曲の歌詞をぼんやり憶えており。合っていたりニュアンスを誤ったりしながら、最後迄口ずさんだ。
<そそがれる 初夏の陽
袖からのぞく そのひとの腕は
空を透かしそうに 儚く綺麗で
私は……>
そんなぐあいの言葉を、ベッドで、少女のような胸もとやながい脚のはだけたバスローブでごろごろしながら、おもい瞼をあけたりとじたりしながら。
まるで古城の牢屋みたいな、季節のないグレイの部屋で。
未だ眠りたかったが、曲の所為で意識は冴えてしまい。諦めたふうに、むくりと起きあがり。
鉄格子ではなく、スライド錠がついただけの、粗末なドアをあける。
眩しい。
でもその空間に、窓はひとつもない。照明が滅多矢鱈と明るいだけ。
人々は誰もが翳を、闇をカケラひとつのこさず奪われたが如く、却って人間味をうしないのっぺりしている。スピーカーから零れる、歌を抜かれた往年の名曲群によるBGMも、おなじテクスチャー。
季節どころか、時刻も不明。
魂をもつ軀も、もたない軀も、服を纏う。
のっぺらぼうのマネキン2人は、マルチカラーのエスニック調ノースリーブと、薔薇のレースでつつまれたミモレ丈ドレス。うら若い女性店員は、青のシフォンブラウスに黒のジャケットとタイトスカート……
夏物をならべはじめている気配だが、実際のシーズンは其処迄でない、といったところか。
「アラ実友里さん、おはやい御覚醒めで」
荒堀店長のメゾソプラノが、背後から。
「嚇かさないでよ、立場が逆でしょ」
「いまさら貴女に誰も愕きませんよ。それより、幾らお美しくても、バスローブで彷徨かれては困ります、何でも良いから着てくださいな」
くるくるのパーマと、紅のはみだし気味の脣と、プリーツスカートの腹を揺らし、嗤う。毎日店にくる訳ではないからだろうか、膨張し、皺を殖やし、呂律も徐々に思う儘いかなくなってゆく様が、ありありと分る。
容色を留めた実友里には數えられぬ年月を、彼女がおしえ。
「解ってるわ……それにしても、つまらなくなる一方ね、ココ。潰れないのが不思議だわ。せめてバスローブよりマシな服、おいていただける? 莫迦らしくって」
「ウチだけじゃありませんよ、どこのブランドも守りに入ってますから……エスニックは飽きまして? こちらのドット柄は如何?」
「ふぅん…‥白でなければ着るわ」
「はいはい」
荒堀店長が上階の倉庫より持ってきたのは、四角いドットの、刺繍やプリントではなく、穴の規則的にあいたワンピース。ベージュの裏地がついており絶妙にヌーディーで、頗る夏らしい。
実友里はレモンイエローを好んだが。
「イエローはショーで視せるだけ、売るのは白のみ」
上より、そう御達し。店にイエローはおかれない。
試着室に入る迄もなく、ファスナーをあげさげする手間もなく実友里は、バスローブよりワンピースへと、軀を瞬時にのり移らせる。吊り下げているだけではタオルか暖簾のようだったそれが、実友里に貫かれた途端、ちいさな胸や悩ましい腰のラインへクールに沿い、裾の辺りではちょっと愛らしくはね、四角い穴より素肌と寸分違わぬ果肉の色を明るく且つ煽情的に魅せる、ストレンジ・フルーツへと変貌し……
……今日の服に限ったことでは、ない。どんな、たとえ寄らねば視えぬようなピアスひと粒であっても、このブランドをブランドたらしめるミューズは、幾星霜を経たいまも、実友里にかわる者はない。
NGアングルの皆無な完成された造形、指ひとつ髪ひとすじさえ品を崩さぬ身のこなし、みずから光と翳をあやつる魔力……そしてヒトとしての生を棄て時の針を永劫とめた、ホログラムか白昼夢の如き存在なき存在に、もう視慣れ過ぎた筈の荒堀店長のみならず、誰もが魅了され、平伏しつづける。何がどうあろうと。
実友里は、レモンイエローで彷徨く。ほつぽつと居る客の眼には、実友里の姿が映っていない。彼等が服をあて覗きこむウォールミラーの前に立ったとて、おなじこと。
だが、実友里がグレイの『部屋』に籠っていた先刻よりも、ちょっと頬を赤らめ眸を潤ませ、「あれも、それからこれも、着てみるわ」と『つまらない』服でも色に艶に柄に手触りに心昂らせている様子なのは、他ならぬ彼女のオーラがなす業。
………フロア片隅、場違いに、男が独り。
ビジネススーツの後姿。電話で喋っている。
「……そりゃそうだろお前、金持ちも貧乏人も、視た目のおんなじ国だぜ? 誰も真っ当に服なんて着てやしねぇ、枯葉か鳥の糞か、頑張ってせいぜい安い造花に擬態してるだけだろ。莫迦らしい」
側溝の泥水みたいに、閊えては流れる声。
実友里は直感する。
<「売るのは白のみ」と云った堅物の解らず屋は、きっと彼だ。でも、『莫迦らしい』という思いは、同志なのね>
肩にジャケットをさげ、捲りあげたシャツからのぞく腕は、くたびれた大人の猫背に反し、少年のようにほそく滑らかで、空がうっすら透きとおるかの如く蒼白く、儚い。
<そそがれる 初夏の陽
袖からのぞく そのひとの腕は……>
歌がまた、実友里をめぐる。
あの歌詞にでてくる『綺麗な腕』は、謎めいた少年でも、恋い焦がれる女性でもない。
不倫相手の妻の腕である。
一人称の『私』は、陽翳の女。午后の庭にたたずむ妻をのぞき視、穢れも猜疑も知らぬ腕と、それにかさなる青天と楽園たる緑の眩しさに、眩暈をおぼえる……そんな、物語。
ちょうど歌が流行っていたころ、実友里は、服のみならず、ブランドを創設した初代デザイナーを、公私ともに、愛した。
そして或る日、何処かのパーティーで、彼の妻を視た。
実友里も袖をとおしていない、当時の新作のカシュクールドレスを着て。さして『綺麗』でもない腕を、夫に抱かれて。
嫉妬より、嫌悪がまさった。甚だ不似合いであることが、ブランドの顔を気どることが、赦せなかった。
<服だけは穢すまい>
と思った。
……実友里がいま、あの歌によって思い出せることは、それだけ。
さだめのように、男の『綺麗な腕』に触れる。採掘された夏空の原石をとらえる。
ふり向く横顔は、我のつよそうな鼻筋、悟りすました風情と幼い無鉄砲さのまざりあう眼……
似ている。誰かに。
<悪くはないわ>
実友里は、かるく抓るみたいに触れる指と、どんな色も纏う水晶の眸、ストレンジ・フルーツの曲線と薫りだけで、いざなう。
男は、先刻迄の斜に構えた石像であった姿勢が、陽に融け魂終えかけた砂漠の生花の如く、緩み。それでいて澱んだ眼に、盲信と情欲の火を、宿す。電話をおとしたことにさえ気づかず、よろける足どりで、一匹の獣たる男にとってミューズなのか人肉をも喰らう妖魔なのか測り知れぬ奇跡の佳人に、ついてゆき。
実友里がワンピースのドット、レモンイエローを靡かせ、夏空の腕をひき向かうは、傍目には唯の、せいぜい電話ボックスを膨らませた程度のスライド錠つき試着室。しかしドアを開けば、芝居小屋のステージぐらい高さも奥行きもある、古城の牢屋のような、六面グレイで固められた空間。片隅に、其処だけ真昼を水面に留めたように白い、ベッド。
<この『部屋』に誰か招くのは、はじめて? 2人目? それとも……>
断ち切られた記憶の断面より何か、薫る。実友里の嫌いな、でもほんとうは好きだった5月の光のような眩しさとともに。眩しすぎるからか、切なすぎるからか、その記憶に棲むのは誰なのか、ピントのぼやけた輪郭が在るだけで、色も顔も、判らない。
『部屋』へと消えゆく、離れていると少女と少年にも映る女と男を、荒堀店長は書類ファイルを捲りながら、老眼鏡をずらしながら、横眼でちらりと視て、知らぬふり。
©2023TSURUOMUKAWA
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