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掌篇小説『金輪際の河』

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 高校三年の時、大晦日から正月にかけ、林間学校があった。

『喧騒を離れ受験へ臨む精神を研ぐ』とかいう名目で、田舎に泊る。馬鹿馬鹿しいが、冬休み明けはもう学校に行かずともよかったので、受験にさほど切迫感のない人間、学内での対人関係が良好な人間は、たいてい参加していた。エアポケットというか、世界でいちばん早い同窓会というか。いちおう宿に籠り勉強することとなっていたが、イヤホンでカセットを聴いていたり漫画を読みまわしたり。外へ遊びに出る者も多く。いつもは怖い体育教師も、その時だけは見ぬふりをしていた。

 僕は僕で、化学教師と付き合っていた。その夜も彼のひとり部屋へ行った。
 あつく睦みあう筈が、心身さめるばかり。彼は教師なうえ妻子もいたので、完全に彼方の都合に従うのに疲弊し。彼方も彼方で青二才の我儘に、堪忍袋がガス爆発したようだった。下卑た宴会芸みたいな半裸の姿で罵りあい、掴み合いもし……教師の眼鏡が割れた。
「金輪際、貴様とは化学反応せん」
 と言われた。要は、お別れだ。僕はさっさと宿を出て帰ろうとしたが、ひとを脱がせるのも手品のように得意だがじぶんが着るのも頗る速い教師がさきに支度をすませ、割れた眼鏡をかけ出ていった。去り際、ノート一冊、僕に投げつけて。それは一見単なる化学のノートだが、ふたり逢う場所のイニシャルや時刻、部屋番号、車のナンバーなんかを数式化学式に紛れこませ暗号にし交換していたもの(モーテルもあれば、アパートの空室に忍びこんだり、教師のでない車で殺されそうな山奥に行ったりもした)。持ち帰りたくないなら、駅にでも棄てればいいのに。

 大部屋に戻ると、6人が何事もなさげに机に向かっており。恥も忘れた怒鳴り合いが聞えていた筈だが、ポーカーフェイス。ひとり、辞書をめくる手をふるわせ笑いを堪え口を歪めていた。僕と教師のことは元から周知だったろう。
 荷を纏めていたら、Yが「帰るのか?」と声をかけた。巨人で五分刈りで無表情だが、気のやさしい男。
Yと一階へ降りると、生徒や客でなさげな老人たちがテレビまわりでまざり、誰かにふるまわれた蕎麦をすすりながら、歌番組に現れる歌手に文句つけたり音符ひとつも揃えず歌ったり。「僕たぶん卒業式も出ない」と言うと、Yは別れの握手を求めてきた。僕はYが好きだった。変に緊張し、彼の岩石みたいな手を上から掴んでしまった。「何やってんだ」とYは無表情で僕の小ぶりな手をはねのけたかと思うと、体裁をととのえ壊れるほど握った。「痛ぇ」と言っても、無表情。Yは詰襟の制服でいた。『何着ていいか分らない』とずっと着ているらしい。寝る時は季節とわず風呂から出た裸の儘だと。馬鹿な奴だし、彼のやさしさは誰にでも一緒で他人に無関心なだけと知っていたが、それでも制服姿が、空虚な頭と裏腹に軍曹の如く凛々しく映る彼を想った(むろん裸も空想した)。Yが好きで、化学教師と化学反応して……我ながら、よく判らない。靴紐を結んでいたらYはもう踵をかえし部屋へ戻ろうとして。僕は軍曹のひろい背をぽんと叩き、振り返らず宿をでた。

 1分ほど歩くと、田舎といえ大晦日、老若とわず人出はあり、露店もならび、神社へ続く登り坂は光に満ちていた。密度が高く煩いながら、灯を宿した籠がうねる河を時と重力に反し遡ってゆくみたいで、綺麗だった。僕だけありきたりな夜の儘、坂を、化学教師に追いつかぬよう、ゆっくりおりる。あれから幾つもの晦日を過ぎ、カレンダーを棄てたり棄てられたりするリズムで男から男へからまり渡ったけれど、虚偽と知りつつ恋だの愛だの公式を使いまわした末、別れを決めるか悟る時、今も、あの灯のぼる河が頭をよぎる。けして嫌いではない光景。土と緑と、粧う女粧わない女、売り手買い手の区別のつかぬ叫びをあげるおじさんたち、烏賊焼き、林檎飴、団子、お面、輪投げ、射的、達磨、熊手……すべてのはなつ匂いが甘く辛く苦くまざり、すべてが金色に輝き。『金輪際』という言葉を反芻しつつくだってゆく僕をよそに、天までうねる。
 ドーパミンによる錯覚に過ぎぬ血潮の温もりも、前頭葉の異常か相手の首さえ斬れる気のする冷酷さも、ほんの数%、真実としてからみあっていたかもしれない微弱な電流も、何もかも、金の河が理屈抜きにさらい、夜空に消散してくれる。頭痛がするぐらい凍えてゆくのに、どこか心地よささえ覚える。

………仕事を終えすこし飲んで、ひとりのマンションへ帰ると、ロビーのポストに差出人不明の郵便があった。宛名はワープロで書かれシール付けされている。
 玄関の照明を点けぬ儘、封を開けばそれは、あの、化学のノート。教師が投げつけ、僕も宿に置き去りにした筈の。暗闇でも、角のよれ具合や、ジュースのしみがついた表紙のかさつきで、すぐわかった。
 どの河を流れ此処に来たか。数秒躊躇ってから頁をひらくと、癖のある筆跡による暗号、虚偽の数式が、一瞬僕の眼のなかで、石に彫られた古代文字のように立体感をもち、蛍光塗料で描かれた抽象画の如く躍動感をもって煌めき、そして、消えた。



©️2022TSURUOMUKAWA

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