掌篇小説『Z夫人の日記より』<151>
7月某日 離
「暫く町を出る」と、近所に住む男の子が云った。「暫く」って数ヶ月か数年か。学生らしいがそれ以外何も話さない誰も知らない。でも野良猫の如く離れつつも、気を赦す眼をしてくれていた。私は昼を食べ過ぎ外したジーパンの釦を気にしながら、彼と視線をかわし。二人も乗れなさそうな車に収まった赤いシャツに手を振る。
7月某日 祓
右眼にものもらい。鏡で視る分には違和感なく思えたので、その儘外出。だがすれ違う人が、慄く、逃げる、悲鳴をあげる。ふいに道を塞いだながい白髪の老人に手をひかれ、都会の何処にこんな? と思う洞窟に連れられ、蝋燭がサイズにそぐわぬ火柱をたてるなか、お祓い棒をシャラシャラと振り、祈祷をあげられる。そこには知人もいた。やはり私から視ると、蝋燭による光と影が不穏に揺れるほか何ら違和感ない顔で、「昔のタイトル使い過ぎよね? ワレの手で時代を造る、って気概がないかね」と、クラッチバッグからだした檸檬を齧る。
7月某日 逢
公園のベンチに、赤子を抱く女。
ランドセルをしょった学校帰りの女子と男子が寄ってきて、
「かわいい」
などと云い、視ている。
女子が、
「あんた、ちょっと」
と手を振り、男子を追い払おうとする。どうやら、女がブラウスの釦をはずし、授乳をしようとしているのか。
「なんで?」
意味を掴めぬ様子の男子。
女は俯いて釦を五つ目迄はずし、下着もなく両の乳房を放りだしたかと思うと、小型ナイフを手に光らせ、ジャンクフードの袋でも扱うように、素肌を斬りつけ。一周すると、白く豊かな胸はまるで紙の如く、はらりと落ち。
切り抜かれた向うには、紫がかった夜空と、潤むように燐く星々が、奥行きも知れずひろがる。
赤子は、宇宙の塵の匂いでも嗅いだか、表情もなくおのずと身を起こし、胸の穴から空にはいり、やがて吸われ……消えた。
「……また来年に逢えるわ。あの子は赤ちゃんの儘で、私は歳をとるけれど」
女は膝におちた乳房をふたたび貼りつけ服に仕舞いながら、子供たちに微笑む。
瞬きも息も忘れ固まっている男子に女子は、
「だから云ったのに」
と、子をもつ女よりもおばさん臭い法令線をつくり、溜息。
7月某日 待
日曜、富豪の老人に呼ばれる。
「結婚を考えている人物がおるんだが、遺産目当てでないか君にも視てほしい」
と。
彼の孫か曾孫か男の子女の子のふたりが、白く発光する天使みたいに、邸内でも駈け、庭、塀もなく繋がる海辺でも駈ける。訛りか異国語か御呪いのような言葉をずっと喚いているが、不思議とちっとも騒々しくない。私は老人に勧められる儘、視たことのないお菓子をたべる。包装紙でなく本体がエメラルドみたいに暉るクッキー。はじめての味。天使ふたりは気づけば目前に、潮の匂いをさせて居る。好奇心か何か、眼を前歯を潤ませ、にこにこして。
陽が暮れても、『結婚を考えている人物』は、現れなかった。
「やはり、駄目だったか」
老人は、いつも微笑んでいる訳ではないがいつも微笑んでいるかのような顔で、窓辺にて夕陽を半端に浴び、呟く。天使たちは、また外を駈けている。
7月某日 友
子供の頃からのペンフレンドがいる。
会った事はないが、おそらく似た年の女性。
始めは例文の如く尤もらしい日常を書いていたが、「ルールがあるか?」とどちらからか気づき。
今は便箋に、電報のような一行(稀に数行)を書くのが通例となった。
今日きた手紙。
「庭で長いこと冬眠してた蛙が、青年になって出てきた」
©2023TSURUOMUKAWA
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