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掌篇小説『Z夫人の日記より』<107>

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2月某日 柿

「毒の柿がね、あるのよ。旦那だったひとの、田舎に」

知人Rが離婚をしたと人づてに聞いてから、本人に会うのははじめてだった。こちらから何も問うてはいないが、みずから語りだした。

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「なんてことない柿の木が、旦那の実家からちょっとのぼっていったとこ、巨人が坊主頭を地面からちょっとのぞかせたみたいな丘のてっぺんに、一本あって。誰も知らないぐらい昔から。それがね、猛毒なの。実を食べたら死ぬの。

彼の同級生の祝言にね、行ったのよ。当人の御自宅で、小ぢんまりしたいい式でさ。そのあとは呑めや歌えや。旦那も夜中まで呑んでへべれけになっちゃって、あたしひきずるみたいにして、連れて帰ったんだけど。

実家に近づいたあたりで、旦那、もたれてたあたしの肩からふわっとはなれて、前を歩きだしたの。宴のときからずっとループさせてる、方言でわかんないけど卑猥な歌詞らしい民謡を歌うのも、やめて。街灯だとか、隣近所の家なんか何百メートルも前からない、うす曇りの星と月だけがよすがの田舎道よ。癖っ毛で多少ふくらんでるけどちいさな頭、ほそい黒スーツの、蟻が二本足で立ってるみたいに見える旦那の躯が、家をとおり過ぎて、そのさきの丘をのぼっていったの。酔ってる筈なのに、こう、働き蟻さながらに、迷いのない足どりでね。迷っているのに。

すっかりひきはなされて、月もかくれて、旦那のかたちが夜に融けてなくなったわ。土を革靴でふみ鳴らす音だけが微かにする……追いつこうにも、家のぼんやりした玄関灯よりさきはまた闇だから、あたしこわくて……風がつよくなって、周りの木々がざわめいて、どこか遠くで獣の呻き声や、土砂崩れみたいな音もして……もう旦那の気配すらわからない。それでも追わなきゃって、こんどはあたしが酔ったみたいに這いつくばって、手で丘を、坊主頭の丘を、さぐったわ。土と岩のあいだみたいな感触で、雨はないのに結構しっとりしてて、滑っちゃう。崖かと思うぐらい険しくも感じた……ワンピースが誰かに襲われてるみたいに穢されてって……旦那は空(くう)にしつらえた階段でも優雅に昇ってくみたいだったのに……気づいたら、旦那の黒い二本足がぼんやり見えてきた。あたしが追いついたんだか、旦那が戻ってきたんだか忘れたけど、とにかく目の前にいて……見あげた瞬間に、雷が、光った。旦那、あらぬ方を見て、まるいちいさなものに齧りついてた。あの、柿だった、食べたら死ぬ、猛毒の、柿。3秒おくれで、雷鳴がした。

……でも、死んでなかった、旦那。稲光は一度きりで、顔はもう見えなかったけど、種をペッペッと吐いて、よく熟していそうな実を何でもなさげに、あたしの前で、食べつくしたの。口のまわりや髪が、果汁と涎で濡れていたんでしょう、手で拭って。げっぷして。

家にはいって顔をまじまじとながめても、きつい地酒の匂いをぷんぷんさせた単なる酔っぱらいだった。あたし、毒柿のことははんぶん都市伝説……田舎だけど、そう思って聞いてたから、放っておこうかとも考えたけど……もう寝てた彼の御両親を起こして、話したの。そしたらふたりとも、こわばって、しばらくおし黙った儘、柿より真っ赤に色づいた旦那の頬を見つめてたわ」

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「夜が明けはじめるころに、喪服のスーツから薄藍の着物に着がえた旦那と、御両親とあたしとで、海まで歩いていったの。小一時間ほどかけて、森とか、岩場を、黙々と。いちばんおおきな岩に掘られたトンネルを前屈みで抜けたら、人が踏みいったことない?って思うくらい、雪みたいにきれいな砂がひろがってて。それを撫でて可愛がるような、凪いだ海があったわ。
只、木の小舟が一隻、砂から生まれたみたいに横たわってて。太陽は見あたらなくて、旦那の着物と、まだほんのり赤い頬のほかは、まだ何も色のつかない夜明けだった。みんな、表情らしい表情をもたず、つくりかけの粘土像って感じだった。言葉は、御義父さんの、ひと言だけ。
『良い日和だ、もう行け』
って。
旦那は、ふりむきもせず舟を水面へすべらせて、ひとり乗って、出ていったの。櫓をギイコギイコ鳴らして、器用にこいでたわ。腰がびくともしなくて、まるで海を逆にあやつってるみたいに……あんな男だったかしら? 公園の池のボートさえ、まっすぐ行けないうえに船酔いして、あたしが交代したのに……って思いながら、ぼんやり見てた。ふだんはミリタリーっぽいシャツとか原色のジャージとか着てたけど……ほんのちょっと着ぶくれして雄々しく見える、硬そうな生地だけどやさしい色の着物が、今まででいちばん、サマになってた。皮肉なもんね。藍色の背が、どんどんちいさくなって、こんどは白い朝に、太陽があらわれない儘の、空と海のあわいを失った儘の白い朝に、旦那のかたちは融けて、消えたの。

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あの毒柿を食べて死なない人間というのが何十年かに一人はいて、そういう人は真逆に、不老不死の躯になるんですって。周りとおなじに歳をかさねられなくなった者は、ともに暮すことが許されず、問答無用で離れ小島にわたるしきたりなんだそうよ。

あの夜旦那が柿を、酔ってうっかり魔がさして食べたのか、すこしでも冷静で故意があって、あたしから、ぜんぶの繋がりから離れるために食べたのか……わかんないわ。問答も調停も裁判も無用の、離婚だから。ずるいわよね。

只あたし、お別れしたのは、旦那が肩から離れたときだと、今でも思ってる。あの下俗な民謡を歌う酒焼けした声がとぎれて、歩きだすまで、旦那はいつもどおりの、旦那だった」

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「……それから、一年ぐらいしたころかな、あの小舟が、無人で浜に帰りついたんですって。ガラスの小瓶ひとつのせて。文の書かれた、誰の名前も記されてない紙のはいった。御義母さんが、こっちに送ってくれたの。旦那の丸っこい文字だった。不老不死になった先人たちと、土のわるい畑を耕したり網を張った漁をしたりして、暮してるんですって。みんな何年生きているのか、もう数えるのをやめてしまっていて、じぶんたちがかつてどんな名だったか、男か女かさえもなかば忘れて、陽にコゲコゲに灼けた、不思議とおなじような髪と顔をして、笑いも泣きも怒りもせず、日々淡々と働いて、育てたり獲ったりした何かを食べて、眠る……

……あぁ、それと、最後に一行、何か書いたみたいだけど、塗りつぶされてて読めなかった。只『柿』って字だけあるのは読みとれたわ。旦那の姓には柿がつくけれど……名を綴っただけにしては長すぎるの。丘のうえの柿、美味かった、とでも言いたかったかね」

Rは話し終えて、会ってから5本目の煙草に火をつけ、不味そうな顔で吸っていた。数えきれぬほど聴かされ覚えたのだろう、ひと言も余さず猥雑であるらしい民謡を、ぽつりぽつり、口ずさみながら。

©️2022TSURUOMUKAWA

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