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【短編小説】 指輪の君


 僕の薬指には指輪がある。
 厳かな空気に包まれた協会の中で、彼女と二人、ステンドグラスから漏れる柔らかい光に祝福された記念すべき日。彼女が僕の手を取ったその日から、僕の左手の薬指から指輪が外れたことはない。
 仕事から帰り、夕食を作る。出来上がれば、温かいうちにそれを食べる。だけど僕はいつも一人分多く作ってしまうので、余ったおかずはタッパーに詰めて冷蔵庫にしまっておく。週末になって、テーブルに置ききれないほどの量になったおかずを食べて反省をする癖に、僕は性懲りも無く今日もタッパーを積み重ねている。冷蔵庫の中は日に日に賑やかさを増していくけれど、家の中には僕の立てた音がただ反響するばかりだった。
 ある日突然、妻の体から妻の魂は旅立った。
 何の前触れもなく訪れた彼女との別れから、気づけばもう三年も経ってしまっていた。僕が歳を重ねたせいなのか、月命日の度に、だんだんと時が進むのが早くなってきていると感じる。僕の記憶の中の彼女の穏やかな〝寝顔〟は日を追うごとに靄がかかり、肌の輪郭から徐々にぼやけてきている。
 彼女があまりにも呆気なく僕の前から居なくなってしまったものだから、僕は今でも、彼女がどこかで元気にやっているような気さえしているのだった。
 一人分の洗い物をしながら、僕は耳を澄ませた。そうすると、微かに、窓の外で歌う虫たちの声が聞こえる。彼女ならこんな夜を「雅だ」とか言って、缶ビールを片手にベランダに出たりするのだろうな。
 彼女を失うまで、僕は夜がこんなにも静かだということを知らなかった。
 失って初めて気づくことは失う前から確かにそこにあったはずなのに、思い出そうと手を伸ばしたところで、今はもう、その手が空を切るばかりなのだ。
 手元のお皿はもう充分すぎるほど綺麗になっていた。泡を流そうと蛇口に手をかけた瞬間、違和感が左手を襲う。──そうか。またか。
 最近、ずっとこの調子だった。近頃の僕は、左手の薬指だけに起こる違和感にしばしば困惑させられていた。
 それが何なのかを確かめようと薬指を見ても、そこには指輪と、食器用洗剤の泡だけがあるのだ。僕は不思議に思いながら洗い物を再開する。すると違和感はまた訪れる。再開する。訪れる。再開する。訪れる。その繰り返し。僕はため息を吐いた。
 洗い物を終えて手を拭く。まだ湿っている手は、いつも通りの僕の手だ。何度見てもそこには何もないのに、薬指の周りにだけ、細い糸が纏わりついているような妙な感覚が続いている。
 この感覚を何かに例えるならば、濡れた肌に張りついた髪の毛の不快さや、毛羽立った洋服のタグに触れた時のごわつきのような感じだ。
「君なのか?」
 僕はソファに腰を落ち着けて、誰もいない部屋に向かって話しかけた。部屋の中からは、当たり前のように、物音一つ返ってこなかった。
 これは何かの病気だろうか。どこか神経が圧迫でもされていて、指が痺れているのだろうか。でも、それにしてはやけに優しく、嫌な感じがしない。
 不思議な感覚に囚われたまま、真っ黒なテレビに反射した自分の姿をぼーっと見つめていたら、不意にスマートフォンの通知音が鳴った。ハッとして画面に視線を落とすと、そこには最近よく話すようになった同僚の名前が浮かんでいた。
 僕は少し考えた。その同僚は、女性だ。
 単なる同僚の女性というだけで、警戒する必要がないのはわかっている。僕自身やましい気持ちがあるわけではない。僕が女性からモテるだとか、男女の関係になる可能性があるからだとか、そういう驕った考えからくるものではない。でも、だからこそ考えてしまう。僕は、未だに指輪を外すことも出来ないでいる弱虫なのだ。
 例えば、この同僚が何万分の一の確率で僕を友人として迎え、親しくしたいと思ってくれていたとする。そこで、僕も歩み寄ろうとしたとする。すると何が起こるかというと、たったそれだけで、僕の中には妻か同僚かのどちらかを裏切るようなそんな気持ちがふつふつと沸いてきてしまうのだ。極端すぎる考えを改めようと何度も思ったけれど、どう取り繕ってもそう思うのだから、もうどうしようもなかった。
 僕は迷った挙句、スマートフォンを手に取った。
 彼女からのメッセージはこうだ。
『洋酒が好きと伺ったので、会社の近くのバーを調べてみました。今度覗きに行きませんか?』
 バーに大人数で押しかけるのは常連客くらいだ。おそらく、この約束は二人でということだろう。
 僕はこの微妙な距離感に覚えがあった。これは小説でいうところの序章だ。
 申し訳なく思いながらも、僕は彼女に妻を失ったことをすでに打ち明けていた。その時の彼女は驚いた様子だったけれど、真剣な顔で頷きながら、最後まで話を聞いてくれた。そこには中途半端な慰めも労わりもなかった。ただ、受け止めてくれたのだ。だからだろう。僕は彼女のことを無碍に出来ないでいた。
 気さくで明るい彼女。彼女のような愛すべき人が僕の友人になってくれようだなんて、こんな僕にはもったいないくらいの光栄なことだろう。
「どうするべきだと思う?」
 僕はまた誰もいない部屋に話しかけた。いつもと変わらず、物音一つ返ってくることはない。そして薬指は先程からひっきりなしに違和感に包まれている。
 これが薬指だけに起こることを考えると、もしかすると、妻が怒っている可能性も推測出来る。「私という者がありながら」と、そんな風に。
「もしかして、怒ってる?」
 僕は薬指をつついた。
 すると、違和感はピタリと止まった。──おや。
「行かない方がいいよなぁ」
 僕の大きすぎる独り言が言い終わるや否や、違和感はさっきより強く薬指に纏わりついた。
「……いや、行ってみようか」
 ピタリ、止まる違和感。
 僕は確信した。僕と会話をするように、何かが僕の言葉に反応していることを。そしてその何かは、僕と同僚の仲を取り持とうとしているということを。
「やっぱり……」
 僕がそこで言葉を止めると、また何かがこぞこぞと指に纏わりつく。何なのかはわからない。わからないけれど、とにかく僕がそれの意思に沿っていないと、この状況はずっと続くらしい。
「やっぱり、今回は行ってみよう」
 途端にパッと気配が消えた。やはり目には見えない何かが、そこには居るらしい。
 ということは、だ。信じ難いことではあるけれど、この奇妙な現象が現れ始めてから、僕はずっとこの何かわからないものと同居をしていたことになる。別に男一人が恥じるようなことはないけれど、トイレやお風呂場まで着いてきていたとしたら、一体どうしてやろうか。
『いくつか行ったことのある所があります。よかったらご案内しましょうか』
 僕はそう返信をして、スマートフォンを伏せた。
 すっかり違和感の消えた僕の手は、いつも通りの、何の変哲もない僕の手だった。
 薬指の指輪は少しくすんでいた。いくら毎日上から丁寧に洗っていたところで、着けっぱなしの指輪は不衛生なのだろう。そろそろ、手入れの一つくらいしておいた方がいいのかもしれない。
 そっと指輪に手をかけて、ゆっくりと引き抜く。長い間、日の光に晒されることのなかった僕の薬指の付け根は、指輪の形そのままに日焼けをしていた。
 確かめるように左手を何度か握る。長年の相棒を奪われてしまった左手は、随分と軽く思えて、物足りない感じがした。
 僕はテーブルの上に指輪を置いた。
 するとどうだろう。指輪が独りでに す、すす と、ぎこちない動きでテーブルの上を滑っていった。それはゆっくりゆっくりとテーブルの上を移動して、最後にはテーブルの隅から弾かれるように、まっすぐゴミ箱へ落っこちた。
 その動きは、よくある映画やドラマの、こっくりさんの登場シーンのようだった。
「……なんてことをするんだ」
 あまりのことに、僕は逆に冷静になった。僕と同僚の仲を取り持つのはまあいいとして、妻との絆を絶とうとするなんて。僕は急いでゴミ箱から指輪を拾い出し、再び薬指に通した。
「痛っ!」
 指輪を通した瞬間、何かに噛みつかれたような痛みが指輪そのものから走った。それは今までの比にならない痛みだった。
 悪戯にしてはちょっとやり過ぎじゃないのか。僕は左手を抱えてうずくまった。けれど、痛みは続く。仕方なく右手に力を込めて指輪を引き抜くと、痛みは嘘のように消えてなくなった。
「やっぱり、君だろう」
 僕にこんなことをしてもいいと思っている人物は、一人しかいない。
 ほっと息を吐いた僕は、床にごろりと寝転がって天井を見つめた。冷や汗をかいた体がひたっと服に張りついて、若干の不快感を僕に与えていた。
 この悪戯の仕掛け人は、──そう、僕の妻は、──何年も同じところで足踏みをし続ける僕に、とうとう痺れを切らして現れてしまったのだろう。
 きっと、許せないのだ。ただ無気力にため息を吐く僕や、憂鬱に体を乗っ取られて出かけることさえも億劫になっている僕のことが。彼女はこの世を去ってもなお僕の姿を見守って……いや……この世を去ることになってしまったからこそ、僕の姿に目くじらを立てて怒っているのだ。
 僕は指輪を持ち上げて中を覗いてみた。その向こうには妻が小さく見えて、久しぶりに会った彼女は呆れた表情で僕を見ていた。まるで、「悩んでも仕方のないことを悩む必要がどこにあるの?」という具合に。それは彼女の口癖のようなものだった。
 何の相談もなしに旅に出て行ったのは君の方じゃないか。僕はその言葉を飲み込んだ。もう手の届かない場所に行ってしまった彼女に恨み言を言ったところで、晴れるものは何一つないと思ったからだ。しかも、情けないことに、彼女の姿を目にした途端、僕は未だに彼女に焦がれていると自覚してしまったのだ。
「……せめて、前がどちらかわかるようになるまでは、そばにいてくれないか」
 僕はそう聞いた。
 指輪の中の妻は苦笑いをした。そして、両手の指先の人差し指と親指同士をくっつけて、四角を作ってみせた。そのまま徐々に透けて消えてしまった彼女が最後に見せた表情は、ぎゅっと鼻先に皺を寄せて笑う、彼女の特大の笑顔だった。
 今起こったことは夢か現実か、はたまた酔って出た幻覚か。再び僕一人になってしまった家の中は相変わらず、物音一つしていなかった。

 それから僕は、すぐに箪笥の上の小箱を開けた。そこは妻の〝大切なもの入れ〟になっていた場所だった。
 もう使うことの出来ない通帳や印鑑。思い出の写真や貝殻。その一番下に、結婚指輪を買った時のリングケースがそのまま二人分揃えて大事に収納されている。
 彼女の示した四角は、おそらくこれのことだろう。僕はリングケースを手に取り、指輪をそこに収めた。
 姿は見えていなくても、彼女は今までずっと、不甲斐ない僕のそばに居続けてくれたのだろうか。
 死してなお側に居る。それって究極の愛の形じゃないのか、なんて言ったら、彼女は「こっちもそんなに暇じゃないんだよ」とプリプリ怒り出しそうだと思った。
 妻は旅立った。そして、僕は生きている。
 彼女に囚われているつもりのなかった僕だけれど、自分のことは何一つ見えていなかったみたいだ。三年経った今になってやっと、彼女を失った自分自身と、正面から向き合うことが出来るような気がしていた。
 僕はリングケースを箱にしまい直した。二人分のリングケースの上に、箱を開けた時と同じように妻の大切なものたちを戻していく。そしてぱたんと、小箱を閉じた。これはもうしばらく、箪笥の上に置いておこう。
 僕の薬指には指輪がある。ただし、それは肌に残る、柔らかな日焼けの跡で出来ている。

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