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味がするご飯

大学の友人に味のないご飯の話をすると笑われる。というかそもそもこの話をして誰かから確かな共感を得られたことがない。

微妙に知り合いの人とのご飯。歳上の人とのご飯。大人数でのご飯。気になる人とのご飯。恋人とのご飯。わたしはよっぽど気を許し仲が良い人の前じゃないとそのご飯の味を「美味しい」と感じながら食べることが出来ない。本当に損していると思う。それなりに高いお寿司も、パフェも何が美味しいのかを感じられなくなってしまうのだ。
何故そうなるかというと単純に「考えすぎ」のためである。
まず注文する時に上手く頼めるか、店員を呼ぶべきなのはわたしか、座り方、コートの脱ぎ方に粗相はなかったか?座ったあとの手はどこに置いておけば自然なのか。いざ食べる時になればわたしは自分の顔が好きではないので特にマスクを外した時に他人から見た自分の顔が気がかりになるし、食べ方が汚いと思われたらどうしよう、取り分けてあげるべきなのか、など考えてしまう。多分もっとある。
こんなことを考えながらご飯を食べて、味を感じる余裕がまるでない。美味しくないかどうかも分からない。

また1人で食べていても味がしない時もある。
学校の試験期間や発表会で明日1人で喋らなければいけないだとか、対人関係でいざこざがある時。特に朝食と昼食の味がしないし喉を通らない。試験期間の時は1週間前からその症状が出てくるのがミソだ。嬉しくない。

要するに過度なストレスを感じている時に味がしなくなる。
このような話をして「ご飯はいつでも美味しいよね」「うん」と2人から返答が来た時の衝撃をわたしは忘れないし忘れられない。

親の職種もあってか「食べる」ということの必要性を幼少期から刷り込まれてきていたので、全く食べないという選択肢はいつもほぼない。そこは親に結構感謝している。ただでさえ自己肯定感小さじ1豆腐メンタルの人間なのだから、食べることすら放棄したらなんかギリギリを保っていた心身が色々まずそうである。ていうか食欲なくてもお腹って空かない?自分でも意味わからなくてキレそうになる時あるけど。

今わたしは大学3年生で、3年になってからようやく学校生活に慣れたと思っている。自己肯定感も小さじ1と言っているが、自分ではこれでも少し上がったと評価している。1年の初めとかもう今考えると最悪だった。その日その日を生き抜いて無事に帰ってくることだけが目標だったし、あの頃のご飯で味がしていたの帰省している時ぐらいだったのではないか。
今は試験前には相変わらず味がしないこともあるけれど、それ以外ではわりと味がするご飯を食べ続けられている。なんだったらこの間謎な面子で行ったマックも味がした。成長である。

そしてわたしは気が付いた。味がするご飯を食べられている時というのはあまり何かを考えて食べていない、という事に。
コートがどうだ、手の位置だなんだって考えなければ良いのだ。当然と言われればそれまでなのかもしれないがどうか思うだけに留めて欲しい。わたしは食べる時も考えていることが普通になっていたのだ。考えるのをやめて成長とは、皮肉めいたものを感じる。知らない方が楽に生きられるというのはこういう所なのだなあ、と。

どちらが良いか白黒付けるのは違う。好き勝手食べ散らかしてまるでマナーがなっていないという事こそ間違っていると思うから。でもどうせだったらわたしも他の人と同じように美味しくて、味のするご飯が食べたい。
わたしはただでさえ低いわたしの株(主観)が食事という行為で下がるのが怖かった。ただずっと複数のことに気を遣うなんてキャパ狭人間には出来なかった。だから意識するべき気を付けることを2、3に絞ることにした。味がした。

1人の時に味がしないことに関しては原因解決というよりわたしの考え方を変える必要がありそうで、まだ答えを模索している。見つかると良いな。

さて、突然だが話はガラッと変わる。
最近わたしはどうやら片想いをしているようなのだが、おかげで3年になって大学にやっとの思いで慣れて味がして喉の通りも悪くなかった食事にまた大きな影響を及ぼしている。今この最後の文章はヤケクソで書いている。
朝食べないという選択肢もないし、授業中にお腹鳴るの嫌だしどうにかして胃に詰め込まなければならない。

口に運ぶ、咀嚼する、あれ、いつ飲み込むんだっけ?絶対普段より噛んでるよこれ。まだ半分も食べられてない。はあしんどい。喉の通りが最悪すぎる。味はギリするな。いつもなら30分あれば食べきれていたのに最近は1時間かかる時もある。早く食べて化粧せねば。はあ。今日は話しかけられるだろうか。口に運ぶ、嘔吐く。

え、今嘔吐いた?(笑)

思わず他人事に笑ってしまった。
これが最近の悩みである。

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