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感動する理由

いつも以上に散文。

旅行に行きたい。
国内なら福岡とか九州に行って美味しいものが食べたい。四国も行きたい。全然行ったことのない西日本に行きたい。未だに使いこなせない一眼を使って写真をたくさん撮って思い出に残したい。
誰かと行くのも良い。でも1人で旅行もしてみたい。自分1人でだからどれだけ道に迷っても時間に遅れても咎める人はいないから。お土産なんて気が向いたら買おう。自分が食べたいものだけ買って、家に帰って1人で写真を見返しながら楽しみたい。

わたしは旅行において自分の興味のない紅葉だとか歴史的な建物だとか、視覚的なものに重きを置いて行く旅行はあまり好きではない。好きではないというか、あまり楽しめた記憶がない。どんなに有名な建造物で観光名所とされている所でもだ。
何故かというとそれで感動というか、心が動かされる感覚がよく分からないのだ。テレビで清水寺を見て、芸能人が「わあ〜」というのは理解できる。あと実際自分が行った時は「思ったよりデカい」とかはある。が「感動的ですね」からの言葉がまるで分からない。

写真を撮ることは好きなので、写真を撮ることを目的にするとまあそれなりに楽しいのはそうなのだがインスタ映え的なそういうノリに乗っかり切るのは少々苦手である。写真を撮るのが下手だからかもしれない。下手の横好き。
写真は視覚で楽しむじゃないか!と言われればそれはそうなのだが、わたしが写真を撮る理由として1番なのは、切り取ったものではなくそこに付随する思い出なのだ。脳内で再生される五感を使った体験を写真を使って思い出す。わたしは何かに残しておかないとすぐに忘れてしまうので何かに残しておきたい。そういう意味ではインスタのストーリーなんかは便利だと思う(苦手)。

以前、フェルメールの『窓辺で手紙を読む女』を見に美術館に行った。記憶の限り初めての美術館だったのだが、その頃丁度フェルメールの世界観がとてもわたしにぶっ刺さるものがあったりもして(完全にミーハー)とても楽しみだったし、初めて見る生の絵画の質感や大きさに興奮したし、有意義な時間だったと感じている。
このように自分の興味のある分野なら視覚だけでも楽しめる理由があるから感動ができる。当たり前といえば当たり前である。
「歳とってから見る大仏は修学旅行で行った時と全然違うよね」と母が言っていたことがあったが、それは母の大仏の知識が増えたからなのか、人生経験が増えたからなのか。わたしが修学旅行で大仏を見たときは口では「おお〜」とは言っていたが、何もよく分からないで帰ってきたのを今でも覚えている。高校の歴史のテストの点数はいつも赤点ギリギリだった。

でも世界遺産とか観光名所とか見に行ってる人ってどれだけそこについて知っているのか。「世界遺産」という名前を見に行ってたりしないのだろうか。ご利益ってそんなノリで貰っていいのだろうかと考えてしまう。
とりあえず「そこ」みたいな風潮があるのは確かだと思う。とりあえず見ても損はしないぜ。みたいな。損こそしないけどなんだかよく分からないまま帰ってきてしまうのがわたし。損してない?
(その点富士山は行くとなれば自分で登るという行動が伴うから良いと思う。世界遺産とかそういうものに善し悪しもないし疲れるから登りたいとは思わないけど。)

じゃあなに見てもつまらない感想しか抱けないのかとなればそれは少し違う。
景色を見てわたしが心動かされるのは思いがけず何かに出会った時だ。よく考えていないで歩いている時に歩いてる途中に綺麗なイチョウ並木があっただとか、綺麗な川があっただとか。
視覚+過程(思い出)が付随されているのでズレた話かもしれないが、わたしはそっちの方が好きだ。

思い出をどこまで細分化するかにもよるだろう。「〜〜(観光名所)に行った」というのも思い出には十分なる。ただそれだけじゃ少し思い出として語るには寂しいのではないかと、わたしは思うのだ。
楽しめないのは勿体ない。母の年齢になるまで楽しむのはあおずけか、それとも今からでも歴史を学び直すべきなのか。
あとわたしは小学生の頃から歴史だけがどうも好きになれない。

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