【短編小説】デビー

 寂しさと哀しみが混ざった感情は体重をかけてゆっくりとドアノブを回す手にも伝わっていた。ギイッという不快極まりない音を立てながら扉が開き、僕は背中に大きな岩でも背負っているように背中を丸め、鉄の塊が付いた足かせでもつけられているかのような重い足取りで自分の家に入った。呆然と立ったままリビングを眺めると僕の頬を涙がツーっと流れる。今日僕は葬式に行ってきた。それもデビーの葬式に行ってきたのだ。

 デビーは僕の高校の同級生であり、高校時代の3年間付き合っていた元恋人だった。

 デビーは美しかった。学校で一番の美女だった。その美しさ故に様々な男たちが彼女に愛を告白した。中には容姿や地位、財産全てを兼ね備えた奴もいた。だからこそ何故彼女が僕を恋人に選んだのか分からなかった。

「あたしを抑えてくれる人が必要なの。」

そう彼女は言っていた。

「この世に留めておいてくれる人がね。」

 彼女が言ったこれらの言葉の意味が分かったのはその言葉たちが発せられてから一週間経ってからだった。彼女が僕に恋愛関係を提案してきてから一週間後、デビー•ギルマンは頓服として処方されていたアルプラゾラムを大量服薬して病院に搬送された。僕らが恋人同士になって初めての自殺未遂だった。

 胃洗浄をされている彼女の様子を見るのは辛かった。彼女の両親は泣いていた。彼女の弟は怒りと呆れが入り混じった表情で口にチューブを咥えさせられた姉の様子を見ていた。僕は自殺未遂をした人間の苦悶の表情と誰かが自殺しようとした際に周囲の人々が見せる様々な反応を見ているうちに何だかいたたまれない気持ちになってその場を後にした。

 デビーは数日経ってから退院した。デビーの家族は彼女を迎えに行く車に僕も乗せてくれた。ミニバンの二列目の座席で僕は病院から出てきた彼女に何を言うべきか考えていた。

「なんで姉さんと付き合おうと思ったんだ?」

 デビーの弟がこう尋ねてきた。

「今何て?」

「僕の姉と付き合った理由を聞いてるんだよ。」

「あぁ。」

 彼女の弟は身体的及び精神的疲労でどんよりと曇った瞳で僕を見つめながら言った。

「姉の容姿に惹かれたとか、趣味が合っていたからとか、そういう表層的な理由で姉と付き合っているのなら今すぐ別れるべきだ。姉さんは普通の女の範疇にいる人じゃない。あんたも分かっただろ?姉さんは狂ってる。僕らの手に負えないんだ。」

 僕は何も返すことができなかった。そして病院の自動ドアから出てきたデビーを前にしても何も言うことができなかった。彼女の頬はほんのり赤く艶があり、一見すると健康そうに見えた。しかしデビーの表情はやつれていた。その様子からヘルシーな病院食によって身体的健康は取り戻しても精神的健康はまだ取り戻せていないのだということが分かった。

 僕とデビーはミニバンの一番後ろの座席に乗っていた。デビーはずっと窓の外に広がる景色を眺めていた。僕は彼女が何を考えているか分からず、また彼女に何と声をかけてよいか分からず俯いたまま身体を強張らせていた。しばらくするとデビーは窓の外を眺めながら口を開いた。

「ごめんなさい。驚いたでしょう?」

 その言葉を聞いて僕は彼女の方に顔を向けた。彼女はなおも窓の外を見つめていた。彼女の父親は運転に意識を集中させていて、彼女の母親はさめざめと泣いていて、彼女の弟は機械のボタンをパチパチと連打しながら対戦式ゲームに熱中していた。デビーの声は僕だけに届いていた。そしてデビーが発した言葉は僕に向けてのものだとようやく理解した。

「あ、あぁ。まあちょっとね。」

「ナーバスな気分になりやすいの。いつも憂鬱な気分と不安から来る高揚感に振り回されていて。アンビバレントな状況になるとすぐに薬に頼ってしまうの。」

「うん。」

 彼女はぼんやりした表情を前方に向けて話を続けた。

「あの人達はわかってくれないのよ。私が自傷行為をする理由が。自殺未遂する理由が。彼らは私のことを理解してくれない。彼らが生きているこの世界が嫌い。早くここから消えたいの。」

「じゃあ、どうして僕に付き合おうと言ってきたんだ?」

 デビーはようやく僕の方へ顔を向けた。その顔にはうっすらと笑みが浮かんでいた。

「だからあなたが必要だったのよ。あなただけなのよ。あなただけは……私のことを分かってくれると思っているから。」

 その言葉から僕はデビーが浮かべている笑みが僕への期待から来る笑みであるということが分かった。僕が持っている何かが僕に対する彼女の好感度を上げていた。僕を信頼してくれているということに対する嬉しさと同時に何となく胸騒ぎも覚えた。そして僕は悟った。これからは彼女との波乱に満ちた生活が待っていると。僕は高校1年生の11月中旬に起きたこれらの記憶を思い出す時、必ずその時僕の中で渦巻いた様々な思いも付いてくる。

 恋人同士であった間、デビーは学校にいる時は僕にべったりとくっついて離れなかった。僕と一緒に登校し、僕と一緒のクラスを受け、僕と一緒の課外活動をして、僕と一緒に下校した。会話も僕以外の人間としている様子はなさそうだった。だからこそデビーは僕が自分以外の人間と関わろうとすると嫉妬心をむき出しにした。彼女は僕が誰か他の人間と話していると、それが生徒であろうが教師であろうが、異性であろうが同性であろうが、必ずその会話に割って入り、最終的に会話の相手を追い出してしまうのだった。

 学校から帰った後もデビーからの連絡に帰宅後の数時間を割いていた。デビーは様々な媒体を使って連絡をしてきた。そしてそれらの連絡に僕がすぐに応じないと僕のことを責めたり、自傷行為をすると言っては僕に早く返信をするよう迫るのだった。僕は彼女がまたあのような行為に走るのではないかと不安になり、学校の課題そっちのけで彼女から来る連絡の対応に追われていた。おかげで高校に入学してから初めての試験で5つの科目で追試を受ける羽目になってしまった。勿論連絡を送ってばかりいるデビーの方も学校の成績は良くなかった。

 僕の両親は僕の将来のためにも早くデビーと別れるべきだと言った。そして度々デビーの両親に電話で抗議するのだった。お宅の娘は私たちの息子の人生を棒に振ろうとしている。息子には輝かしい青春を送る権利がある。そして輝かしい未来を描く権利も。あの娘はそれらの権利を息子から奪っている。息子を堕落させようとしているのだ、と。

 僕は僕の両親がデビーの両親に抗議の電話を入れる度に彼女の両親に自分の両親の無礼を詫びた。デビーの両親は泣きすぎたために落ちくぼんだ両目をさらに涙で満たしながら、僕はやはりデビーと別れるべきだと言った。うちの娘のために僕の人生を台無しにするわけにはいかない。別れるのがお互いにとって良い選択だ、と。そして彼女の弟も僕にデビーとの関係を解消するよう電話で何度も諭された。僕は彼に「分かった。」と言い、彼女と別れるよう努めると約束した。しかしそれから10分と経たないうちにデビーから電話があり、ほとんど絶叫に近い声で自分と別れないで欲しいと懇願してくるのだった。泣きじゃくる彼女の声を前に僕は「分かった。」としか返せなかった。そして彼女との付き合いが長く続くように努めると返すのだった。それは彼女の弟と交わした約束と真逆の返答だった。

 何故僕はデビーとの恋愛関係を続けたのだろうか。それはおそらく僕の方も彼女に依存していたからだと思う。彼女に出会うまでの僕の学校生活は苦痛そのものだった。小学校高学年の2年間と中学校の3年間、僕が学校に来て勉強したり読書や写生に興じることを良しとしない人物が何人かいたことは確かだった。僕は彼らに暴力を振るわれ、暴言を受け、私物を隠された。彼らと共に生き抜くためには僕は出来るだけ自分を押し隠して存在を空気に近づけるしかなかった。そんな僕にとってデビーは初めて僕の存在を肯定してくれる家族以外の人間だった。そして彼女は僕を必要としていた。それがどんな関係だったとしても僕は誰かに必要とされることに飢えていたので、デビーが恋人に僕を選んだことは僕にとってまるでそれが宿命であるかのように感じられたのである。彼女が僕を必要なように僕は彼女を必要としていたのだ。

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