鬱な日々

 憂鬱な気分が脳髄の覇権を握る時は突然訪れる。勉強しているときに突然、誰かと話している時に突然、スマホで動画を見ている時に突然、テレビを見て笑っている時に突然。
 憂鬱な気分に支配されると、それまで前述したような行為に集中している状況を別の視点から眺めているような感覚に襲われる。所謂客観視というものであろう。ずっと別の視点から自分を俯瞰してみているうちに、「自分はどうしてこんなことをしているのだろう。」という考えが芽生える。これらの行為が何のために行われているのかが理解できないのだ。
 自分がしている行為の目的が理解できない状態に来ると、どこからか私自身を否定する声が聞こえてくる。否定の内容は私の容姿であったり、私の身体的・知的能力であったり様々だ。その声は私の存在全てを否定してくる。そして存在全てを否定された私は何も言えなくなるし、身体も動かせなくなる。
 身体が動かせなくなり、言葉も発することができなくなった私はその場で黙って俯いているだけのものになってしまう。立っている時はそのまま倒れ込んでしまうこともある。一人でいる時はそのまま気分が高揚してくる時を待っているだけで良いのだが、誰かと行動を共にしている時は相手方に迷惑をかけてしまうのが辛い。
 家族といる時に起こる憂鬱発作は特に辛い。家族は私が急に言葉を発しなくなったり動かなかくなったりすると、無視されたとか私の怠け癖がまた始まったと考えるらしく、何も話せない、どこも動かせない状況にいる私のことを責め始める。ひどい場合には身体を持ち上げたりして無理やり動かそうとしてくる。いや、一番ひどいのは一緒の空間にいながら私がこのような状況にあることにすら気づいていないということだろうか。
 彼らに今の私自身の状態を理解させることは容易なことではない。それはまるで認知症の老人に現在の若者文化を語るようなものだ。そして彼らのような人々が憂鬱発作が起きている状態の私に怠けているとか人の話を無視するなと責めるのも全く効果のない行いである。それはクマムシのような生き物に科学や宗教の素晴らしさを教え込むようなものだからだ。
 今はメンタルクリニックで処方されている薬のおかげで何とか2週間に起こる憂鬱発作の回数を抑えることができている。家族とのいざこざも少なくなった。だが、今抱えている問題はそこからの話なのだ。永久に薬を飲み続けるわけにもいかないし。薬を飲まなくなった時、どのように鬱な日々を送っていくのかが私が直面している課題なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?