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自己肯定感や愛せない自分と推しの話

 自分を愛せないと他人を愛せない。この一文に頭を抱えた経験はないだろうか。少なくとも私にはある。私にとって自分というものは犬のうんこ以下の価値しかないから、そもそも愛せるとか愛せないとかそういう次元ではない。つまり私は自分を愛せないから死ぬまで何も愛せないらしいと小学4年生ぐらいの頃に気が付いて絶望しはじめたものだ。

 私はVtuberの厄介オタクをしている者であり、少なくとも私は愛せない自分を引きずりながら推しやコンテンツを愛そうとして事故を起こすから厄介オタクなのである。逆説的に他人や自分以外のコンテンツを愛することで自分を愛そうと試みるのがオタク活動の一側面なのかもしれないし、何かを推すことで結果的にその行為の中で愛せなかった自分も一緒くたに愛せやしないかと願い、私は目下その矛盾した旅路の真っ最中にある。

 つまり最近、私はなぜ自分が厄介オタクになってしまったのだろうと思いを巡らせて、その原因としての自身の自己肯定感の低さにたどり着いた。推しを肯定することでフィードバック的に自分の肯定感もその漏れた光で自分の肯定感も多少満たされちゃったりしないだろうかという遠回りした願望に気づいたのだ。

 私は何を隠そう根暗である。自己肯定感や自信の貯金が幼少からのイジメや両親との人間関係の拗れによってそもそもの量が少く、そこから更にすり減っている。なので、バキバキの自信や肯定感を纏うリア充連中は怖くて仕方がない。生身のYoutuberみたいな人達はそういう理由で怖くて直視できない。でも、Vtuberなら見れた。これはなんでだろうと思った。

 形は違えど、自分というものをインターネットを介してであったとしても、人目の触れるところに自ら進んで晒してやろうという配信活動など、露出狂か肯定感おばけのそれであり、Vtuberも自信・肯定感・行動力のどれかが、あるいはそのすべてがバグっているモンスターの類に他ならないのだから、本来は日陰者の私にとって、筋トレに励みながら起業や副業や高収入に目を輝かせ自身の出世を確信し自信に満ち満ちていた学生時代に知り合いだったリア充野郎のことを怖く思ったのと同じ理屈で、シンプルに怖いはずなのだ。

 きっと、推しやVtuber達は行動を起こし、チャンスをつかみ、決して楽ではないその活動を継続している以上、私のようなジメジメした日陰者の類ではなく、その対極に位置するスポーツ漫画の登場人物とかが居る方の側に近いはずだ。しかし、顔や素性を伏せているという1点においてのみ、その肯定感や自信が全てを満たしきれないほんの少しの陰りのような演出上の隙が見える場合があって、きっとそこに日陰者は安心するのだと思う。本当にちゃんとしている医者とかから「ちゃんとしろ」って言われたらぐうの音も出ず死にたくなるけど、自分の知り合い程度に「ちゃんとしろ」って言われても「お前もちゃんとしてへんトコ結構あるやろがい!」と開き直れるのときっと同じ理屈である。その隙をこじ開けて炎上させられたりもするから隙も決して良い事ばかりではないにしろ、私にはどうもそれが重要であったらしい。

 推しの自己肯定感や自信が傍目に不必要に低く見える場合もあり、Youtubeでの活動を選んでまで、そこであえて素性や姿を隠してキャラクターをやっているということが、光だけでは満たしきれないような何か後ろめたさをぬぐい切れない自分の個人的な負い目と対比してシンパシーを勝手に感じやすく、痒い所に手が届いた気がした。

 オタクとして推しを全肯定したいのは、まわりまわって遂には現実での肯定をされなかった自分への遠回しな肯定を行う作業でもあるのかもしれない。私の場合は推しを全肯定することで自分も少しだけ許されたいような気がするのは確かである。言葉を選ばず悪く言うとVtuberの隙に付け込んで推しを名乗っている日陰者のひとりが私である。最近は切り抜きで見た自己肯定ペンギンなる造語を謳い脊髄で喋るらしい烏天狗がとても気になっています。

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