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推しを推す器について

 私はVtuberの厄介オタクをしている者であるが、自身のオタクとしての器があまりにも小さいということを痛感した。もともと大容量だとも思っていたわけではなく、極端に小さい部類であることはある程度まで理解しているつもりでいた。しかし、小さい小さいと思っていた自分の器というやつは、その想像を超えてさらに小さいらしいのだ。

 さて、厄介オタクと言わないまでもVtuberを推しに据える紳士淑女の皆さんも動画や配信へのコメント、ツーイト、あるいは推しへのリプなんかも人によっては嗜んでおられることだろう。その根底には推しからの認知や感動の共有といった形で、その大小や含有量は人によって異なったとしても、情報を発信することに伴う承認欲求があるはずだ。私もコメントやツイートの経験があって、自身のそれについては現実世界で行き場を失くした承認欲求のゆがんだ形であろうと推測していた。

 現に私など現実世界では話にならないわけであり、無職であったし、学生アルバイトの方が稼げるような手取りの替えの効く非常勤勤務に同情でしかありつけていない。広げたアマガエルみたな顔面を授かったり、汗かきだったり肥満だったりして、現実で通用しないことの言い訳に、さも現実を切り捨てた面で現実逃避がてら空想の世界にのめり込むのは早かった。それが手を変え品を変えインターネットを介して今はVtuberに夢中というわけだ。

 承認欲求というだけあって、勝手なコンプレックスである場合も多いが、自身が認められたものではない存在であるが故の葛藤や渇望がその地盤となり、基本的にはそれによって満たされようとしているはずである。つまり相手や場所が用意できず、仕方なく悲しみのキャッチボール未遂ではじめた一方的な壁打ちであったはずのそれに、推しや相手が万が一なんらかのリアクションなんかを起こしたりしてくれちゃったりした日には待ち焦がれたその渇きを潤す喜ばしいことであるように思っていた。しかし、実際に直面してみると自分にとっては想定と少し違った。配信にしたコメントが初めて読み上げられたとき嬉しさもあったが恐ろしさを感じ、次に何をコメントしていいか分からなくなって、しばらくコメントが打てなくなった。

 私は厄介オタクを名乗っているが、その厄介具合は自分の想像を超えるのかもしれない。居場所が欲しいと願ったが与えられた席を拒否するように、欲しがっていたプレゼントをいざ送られると首をかしげるように、見つけてほしかったはずなのに、見つけられると困ってしまった。我ながら、なんだコイツと自分のことを思った。私は何がしたかったのだろうか。

 これでは、軽蔑していたはずの無関係な立場だけで無責任な意見を一方的に放つアンチや昼の帯番組の出演者と同じではないか。もしかしたら最初から同じだったのかもしれない。私も結局は推しとか都合の良いことを言いながら、壁打ちの壁になって欲しかっただけなのかもしれない。言われてみればその推しの胸は壁に似ている。

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