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どこから推しで、いつまでリスナー?

 尊みを感じるVtuberの配信を見るたびに推しの空気になりたいと願うが、仮に自分が空気であった場合それは毒ガスに他ならない為この夢は叶わない。自身が立派で胸の張れるオタクかと言われれば決してそうではなく、むしろオタクですらないような低次元に君臨しており、推しなどと語れる日は自分には来ないのではないかと考えるが、こういった悩みを抱いている時点で世間一般からすれば大層異様なオタクに他ならない。

 さて、“推し”という言葉もずいぶん聞き慣れた昨今においてなお、何を基準に推しを判断して良いか私は分からないままである。自分が推して許されるような人間に値するとは思えないし、嬉々として手放しで楽しめているわけでも、熱意や覚悟を持ってコンテンツに触れているわけでも、支えるほどの出費をしているわけではないので、私に推しを堂々と他言できるライバーは恥ずかしながら居ないと言わざるを得ない。ひた隠しに精神的な支えとさせてもらっている隠れ推しのようなライバーは存在するが、申し訳なさから私が具体的な推しを宣言することはないだろう。すでに勘の良い方はお気づきの通り、私は厄介オタクそのものである。知人にも「もう推しで良いじゃん」とあきれられたこともがある。

 もしかして、私の個人的でコンプレックス的な理由から、推しと呼ぶに際する精神的なハードルが高いのではないか。そして同時に自分で勝手に設定したその高さを超えることが私には不可能ではないかと思った。その昔、メンバーシップに入っていないことを理由に「推しじゃない」と言っていたチャンネルで、メンバーシップに加入した後も「日が浅いからと推しとは言えない」と位置づけていることを思い出した。他にも推しを名乗れないまま卒業してしまい、後からそれを悔やんだことがあった。その卒業に際し泣いたし、心に穴が開いたことは確かであった。しかし、実生活の実害は思ったより生じず、むしろ何も実害など出なかった。心に穴が開いただけで、それ以外は特になんともなく日常が続いていて、その事実がどうしようもなくその出来立てだった心の穴に沁みたりした。

 私はどこか具体的な推しを名乗ることに怯えてはいないだろうか。推しを名乗る自分を許せないのだろうか。仮にそうだとして、それを許せる日は来るのだろうか。推しを名乗れないまま突如として卒業によりリスナー生活の幕が閉じた薄暗い思い出を持ちながら、私は今も具体的な推しを公言できないままで居る。取り返しがつかないほど精神的に依存しながら、なおも理由を探して「まだ私は推しているとは言えない」と思えることに安心さえしている。推せるうちに推せという言葉がある。引退だったり、熱が冷めたり、それどころじゃなくなったり、その理由は様々であるにしろ、リスナーで居られる時間も有限である。どこから推しで、いつまでリスナーで居られるのだろう。

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