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推すことと目を反らすこと

 私はVtuberの厄介オタクをしている者であるが、推しの心音ASMRを聞くに際し、多少の抵抗というか生理的な無理が顔をのぞかせているらしいことに気づき、これは何だと戸惑った。推しが生きているということに日ごろ散々ぱら感謝垂れ流しておいて、心音が聞けないということに一瞬説明がつかなかった。知人に話すと直視できないのかよwと軽く流された。それが大変に引っかかったので少し考えてみようと思った。

 要は、人によって「アイドルはトイレに行かない」と思うのと同じ理屈である。自分にとって適切な理解(言葉を選ばず言うと自分にとって都合の良い解釈や認知)が追い付くために必要な距離がそれぞれパーソナルスペースみたいな形で個別に存在していて、心音ASMRは私にとってそのラインを超えたのだろう。思えば、個人的にシチュエーションボイスを聞けないのも、きっと似たような仕組みであろう。きっと私は場所によっちゃ目を反らしながら推しを推しているのだ。しかし、案外それで良いように思えた。

 同時に、こういうことには何故か罪悪感もお釣りとして引っ付いてくる場合が個人的に多いように思う。こういうことが起こると、新卒で就職できずニートをしていた時に将来の話をされて適当に誤魔化したときと近いような、本来は直視しなくてはいけないものから目を反らしているような、そんな感覚を私は感じることが多いが、頭ではその必要はないと考えている。

 推しだからといってその周辺要素の中に自分じゃ美味しくいただけない領域が存在しないとは言い切れないし、推しているのだからその全てを受け入れねばならないという訳ではない。しかし、そこにコンプレックスが生じる以上は少なくとも葛藤は発生して、それが良くない方にスイッチングする場合もあるということだ。

 目を反らすことが悪か否かという哲学的な問いに発展しかねない問題ではあるが、個人的には目を反らすことは悪ではないと考え、それが悪か否かという問いに取りつかれると、それは悪であるとなりがちで、結果的に目を反らさないことだけが正義であると妄信してしまう場合が多いように思う。

 そもそも何からも目を反らさず生きている人など存在しえない。動物の命や食肉と殺を悲観して肉食を脱する人類も存在するようだが、そういう人たちも熱心に注目している脱肉食の反対側で起こっている別の問題は見ていなかったりする。皮肉にも人の目は前にしかついていないから目の前のものを見るとき反対側は見られない設計になっていて、それが思考にも反映されるらしい。

 好き嫌いをするなとか、妙な義務感をヨシとする風潮が蔓延こそしているが、どうせ食べられるなら食べ物やその生産者だって嫌いな人や口に合わない調理法で不味いなと思って食べられるよりも、美味しく思いながら食べてもらえる方が良いはずだ。

 わざわざ、自分の口には合わない部分をつまみ食いして、不味かったですとフィードバックするのはマッチポンプ的なクレーム行為に他ならない。レストランでやったら威力業務妨害である。目を反らすというと聞こえが悪いが作業そのものは見極めに近い。人が美味しいと言ったものが自分には不味いこともあるように、好みに絶対的な正解が存在しないのだから、自分が好きでられるところを好きでいれば良いのだ。その方が返って推しを直視できているようにさえ思える。
 
 そもそも、コンテンツの発信者側も無理して嫌な思いをしてまで触れて欲しくはないだろうし、個人の判断で意気揚々と意気込んで好き嫌いを克服するのは勝手だが、なにか同調圧力的にその場の空気から読み取った勝手な責任感や義務感を感じて無理をして嫌いな部分や口に合わない部分を手に取ろうとしているのなら一呼吸置こうではないか。無理や義務感は破たんするし、自分やコンテンツにも一時的に嘘をつくことになって不自然である。自分は目を反らさなかったという自己満足のために嫌いになるのと、自分が好きでいられる所を見極めて好きでいるのと、どっちを取るか選ぼうではないか。

 しかし、オタクは厄介な生き物であるから、全肯定しようと無理して苦手なゲームの配信とか自分じゃ美味しく頂けない領域に意地で張り付きがちである。美味しく頂けない部分も決死の覚悟で完食する修行に来たわけではなく、好きで見て楽しい時間を過ごすべく推しているのだから、そうなった時は本当に幸せで良い時間が過ごせているか自問できるオタクでありたい。

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