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推す側のコンディションについて

古事記にも推しは万病に効くと記されているし、実際そうだと思う。私はVtuberの厄介オタクをしている者であり、精神的な疲れなら基本的に推しでなんとかなると今まで考えてきた。しかし、推しでなんとかならん場合にも直面しだして、しばらく推しを疑う期間を過ごしていた。

今までは推しでなんとかなっていた疲れやフラストレーションが推しでなんとかならなくなった場合、基本的には想定される可能性は推しから心が離れたというこの1点のみとなる。

精神生活の大半を推しに支えてもらっている厄介オタクは悲しいことに、そういう現実が受け入れがたくなって、厄介さに拍車がかかる仕組みになっている。

時には知らないゲームの配信が増えたからとかかこつけて推しや配信内容のせいにしてみたり、飽きてしまったのかと自分の情けなさにしてみたり、その過程と方法はさまざまにせよ、心が離れだした時に厄介オタクは途端にバランスを崩しがちである。

ふと、私は自分が推しのコンテンツを楽しめなくなっている原因の1つが疲れではないかと見立てを立ててみた。いや、疲れているから推しの癒しを摂取したいわけで、疲れているのは当然であるが、その疲れ具合がおおよそ推せる状況ではなくなったのではないかと思ったのだ。

思えば、4人しかいなかった担当部署が急な退職により3人になって単純な仕事量が増えてキャパオーバーを起こしていることや、交通事故を起こして精神的に参ったり、車の修理代の不意な支払いに追われ出したり、シンプルに推しどころではなくなっている自分が居た。

きっと、それどころではなくなったことを情けないとする思考がどこか働いていて、事実として認められなかったのだと思う。しかし、自死や心中のように生きることでさえ、それどころではなくなる事例がある以上、何事にだってそれどころではなくなる事があって、それ自体が過失や罪の類いではないはずだ。

私も推しどころではなくなったので、必然的に予定に追われるうちに時間がたち、ある程度ひと段落がついたころに、ふと余裕ができて眺めた推しの配信はこれ以上ないほど尊いものであった。

つまり、恐らく最低限の楽しむ余裕というのが必要で、場合によっては気付かずにそれが枯渇している場合があるらしいのだ。疲れているから癒しに推しを見るが、疲れすぎていると楽しむ余裕もなくなって、結局推しを楽しめなくなって、本当は推しから心が離れているわけではないのに、心が離れてしまったようでスリップダメージを食らうというバグがあるらしい。

どうやら私は推しどころではなくなっていて、推しどころではなくなった問題が少しだけ萎んで出来た隙間の余裕で、なんとか推しを楽しめる状態に戻ったらしい。

心が離れるのを感じたら距離を置けみたいな定説をよく見かけるが、人によっては知らずに枯渇している推すための余裕が復活するのを待て!なのかもしれないと思った。

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