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Vtuberの才能と無才能な自分の対比で死にたくなる話

 きっと誰しもがかつての小さな天才であったはずだ。しかし、自分より強く大きな才能や現実とかいうやつらと対峙するうちにそれを手放したのではないだろうか。才能や能力の大小というやつは当事者のうちは痛いほど身に染みるわけだが、一度席を譲ってしまうとその目測は価値を失くし、凄いか凄くないかの判断や見極めは曖昧になっていく。本当はとんでもなく凄いことなのに、見慣れているから普通であたりまえに見えるなんてこともあるわけだ。

 歳が近いトップアスリートや投資家や芸能人なんかを引き合いに「〇〇は頑張ってるのにお前は…」みたいな比較を親族等から食らったり、食らって凹んだりしたことはないだろうか。これは「軽トラもF1と同じ車なのだから時速300kmで走れないのはおかしい」と言うのと同じぐらい的外れな比較で、そもそも土俵が違うのだが、有名で見慣れているというだけでその土俵の違いに気づけないのだ。

熱心に常軌を逸した発掘でもしている場合は含まないが、見慣れてしまって忘れがちなだけで、普通に過ごしてるだけで目に触れる“もの”というのは基本的に何かが超一流である。たとえばVtuberに限っても全部で何人居るかなんて天文学的数字になる。その中でファンを獲得している貴方の推しも、その上位のほんの一握りの超一流の部類であるはずだが、見慣れていて気付いていないこともあるだろう。

 そんな輝かしい推しから、自分の手元に目を戻してみようではないか。目下、私はVtuberの厄介オタク活動に勤しむ中年男性である。なろうとしてなったわけではないが、拗らせることが多く自警を含む自虐的なギャグとして厄介オタクを名乗り始めて今に至る。少なくとも私に凄いところなど1つもない。百歩譲って無職や幼少より絶えず起こす不適合の経験があり、一般的な常識を逸脱して度の超えた不埒さをいくつか所持してこそいるが、その凄さは尊敬ではなく軽蔑の対象となるだけだ。推しは凄いが推している私は何も凄くない。なんだか死にたくなってきたな。この話はやめよう。

 そういえば、昔の知人から久しぶりに連絡があった。「推しのVtuberと同じ配信機材で配信を始めてみたい。音楽をやっているお前なら同じ機材を持っているかもしれないと思って連絡した。もし、同じものを持っているなら貸してほしい」といった内容であった。話を聞くと、下手したらスタジオにも無いような超ハイエンド機材群をさも当たり前の標準装備のごとく列挙する知人にあっけを取られた。「最低でもマイクはノイマンのが欲しい」と言った。最低という言葉の意味がわからなくなりそうだったが、そいつには推しを通して見慣れた名前だったのだろうと思った。機材もとんでもなく凄いが、それ以上に推し本人がとんでもなく凄いし、むしろそちらが主軸であるのだから、別に無理して同じ機材を買ったとて推しにはなれっこないだろうに。

 基準というのは人それぞれで、見慣れたり特殊な状況に居続けたりするとその当たり前がズレることはよくあることだ。インターネットに接続されている人類にとっては、良いも悪いもインターネットの普及で今まで接点もなかったはずの超一流と同じ画面上で表示されてしまうことが当たり前になった。全然土俵が違うハズなのに、同じ土俵に居るように錯覚して凹んだり、比べられて持って行き場のない気持ちに満たされたりしたことがあるはずだ。プロゲーマーの装備と同じ装備でないことを意識が低いと説教されたとき、そのFPSについて、少なくともその人とは二度とプレイするもんかと思ったこともある。

 推しは引き裂くほど輝かしい才能に溢れている。この場合の才能というのは親の財産や不労所得といったような楽に手に入ったり最初から持っていたものという意味合いではないことだけ補足しておくが、光というものは電球が切れるように、また日光で看板が色あせるように、時に繊細な配慮が必要であったり、自他ともに決して好ましいことばかりだけではないことも多い。まぶしすぎると思った場合は、距離を取ったり自分なりのサングラスをかけることも悪くないのかもしれない。

 推しも頑張っているのだからと生活に張り合いを持たそうと意気込むことそのものが悪いとは思わないが、推しのいる土俵に一歩でも近づきたい一心で「せめてノイマンのマイクだけでも」と必死な知人に「マイクだけあっても何もできない」と言いたい気持ちを一端無視してそのマイクの値段を教えると、少し悩んで借金を検討し始めたから引きとめた時に「純粋だがその目が曇っている」と思ったし、何事も頃合いの見極めが肝心であるのだと思った。輝かしい推しを見ているうちに、何の光も発していない自分が情けなくなり死にたくなったことなら私にも数えられないほどある。きっとその対比そのものが間違っているのだが、こういう性の人間は悲しいことに気づけば同じ過ちを繰り返してしまう。

 推しは輝きに満ち満ちているが、私に輝きなど一滴もない。気を抜くとこんな私が推していて良いものだろうかみたいな不毛な悩みが湧いてくる。私は輝きの無い日陰者として、他の日陰者より数段大きい日陰を背負っている自覚こそあるが、そんなもの推しの輝きの前では誤差にすぎないから、気に病む必要すらないはずだが、気になって仕方がないときが増えたように思う。

 適切な距離感というのはどこにあるのだろうか。身の程をわきまえることの大切さに直面した。しかし、少なくとも私もその知人も適切ではない距離の場所にいるということが確かであった。

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