見出し画像

推し事に生じる無理の話

 私はVtuberの厄介オタクをしている者であるが、私が推しグッズとして着ないTシャツや聞かないボイスを買うことを指さして、無理して義務感で推しているからと買うのは不義理であると大層怪訝がられた。別に欲しくもないのに推しだからと義務感で無理して買っているというならお金の無駄であると道徳を疑われるのはある程度までなら理解できるが、私の場合は使わないだけで欲しいのだから放っておいて欲しいと思った。

 私の場合は太りすぎていてこの世に流通するTシャツのほとんどが物理的に着られるサイズではないため、基本的にTシャツとなると衣類ではなくコレクターズアイテムにカテゴライズされるという異常事態もあって、傍からみると目に余ることもあるのだろう。自分には入らない着られない服を結構な高値で買うというのは、無免許で車を買うようなものだから、どうするつもり?と理解に苦しんで戸惑うものわからなくはない。

 別に当のライバー本人でないのなら余計なお世話であると一掃できなくもないが、この問題はかなり複雑で、コンテンツの一端を担う喜びと実生活や精神衛生的な側面との極めて繊細なバランス感覚でもって成立する話なので、私も他人様に話せるほどバランスを保てているかというと崩すことの方が多い。実生活や精神衛生上の不健康を伴う行き過ぎた推し事について、指摘や是正勧告のようなものが個人間で飛び交うのはわからないでもない。

 自分にとってどうかと、傍からみてどうかに違いや誤差はあるにしても、後悔したり虚無感に襲われたりする悲しい未来を避けるために個人的な基準は設けておいて損はないのかもしれない。私は後味に残る苦味が許容できるかを基準にしたりしている。後味の苦味が無いならそれ以上のことはないし、その場合は1ミリでも苦味が発生したら考え直すといった具合で問題ないだろう。私のように心配と不安と自分で3人暮らしをしている人種にとっては、苦味は無くならないからその大きさが予想を超えて膨らんではいないかと目を光らせる必要がある。

 しかし、後味に苦味や苦痛があるから等しく不健康でいけないことであるかといえば決してそうではない。修行までいかなくても、筋トレやウォーキングとかの趣味も肉体的には疲れるがそれも人によっては許容できる範囲があるから趣味として成立するように、自身が許容できる範囲に苦味が落ち着いているかが重要ではないかと考える。

 案外、苦痛はなく楽しいだけでないといけないとする快楽原理主義の趣味を持つ者と、許容できる苦味は深みのうちであるとする精進的な側面のある趣味を持つ者では、水と油なのかもしれない。私も音楽を作っていた時期に作業中はイライラもするし寝れなくなったり苦しくもなるのを見かねた知人が、“音”に“楽しい”と書いて音楽なのに見てると楽しんでいるようには見えないと的外れな心配をしてくれたことがあったが、その先にあることと今の苦味を天秤にかけた時に私の音楽は苦味に2ミリぐらいは勝っていた。

 バイクとかもそうで、エアコンもないのに夏場に何故クソ熱いのにわざわざ2輪で街に繰り出すのかというと、当の本人達には維持費なんかの金銭的なことも、疲労や気疲れといった精神衛生的なことも含めて、その苦みよりバイクから得られるものが少なくとも勝っている状態にあるのだ。むしろ、その許容できる苦味無しには見ることのできなかった景色にとりつかれているのかもしれない。となると不健康といえば反論しきれないかもしれない。

 中毒や依存症という言葉があるが、基本的には実生活に弊害が出ないことには進んで診断をつけないようにする流れがあるらしい。苦味を伴う趣味でその苦味が知らないうちに膨れ上がって苦渋だけを啜っているなら考え直そうぐらいで良いではないか。楽しいことにお金を払っていたはずが、お金を払えば楽しくなるはずだと目的と手段が逆になっているなら注意が必要である。

 目下、Vtuberの推し方、特にその一端を支える喜びを味わうのは別に金銭を伴う購買だけに限ったことではない。私は最近ラジオ番組を模した配信におたよりを送ることに生きがいを感じている。送っても送っても一向に読まれないことに憤慨していた知人を貴様はおたよりに向いていないのではないかと諭したこともあるが、そこまで過激化せずに済むのであれば、読まれなくても何かそのコンテンツの一端を担えたような喜びと幸せを感じたりしているのでお勧めである。

 無理は必ず破綻するし、義務感や同調圧で流された意志はブーメランになって刺さってくる。部屋にグッズがあって推しの一端を担えているような幸福感や、PC内のファイル名に推しの名前があることから得られる栄養素のために着られるサイズじゃないTシャツや聞かないままのボイスを買ったりしているが、私もなんで使わないのに買ってるんだっけ?と疑問に思ったら買うのをやめようと思う。

 私の周りだと、子供の頃に流行ったカードゲームやオンラインゲームに費やした時間や金銭について、後悔した人とそうでない人の差はその納得がいっているか否かであった。なんとなくはじめて、気づけばどうしようもなくなっていると、後から仕方のない気持ちで悲しくなるのだと思う。その後悔は使いすぎた方と使わなかった方のどちらも存在するから、のめり込むことが必ず悪いというわけではない。自分で決めたり、納得がいくかどうかの方が重要なのである。

 気を付けて見張ることで自分にとって良い方を自分で選ぼうではないか。自分で選べば後悔もドラマになるはずだ。

追伸
 誕生日記念グッズセットを買ったあと、通勤のガソリン代が足りないことに気づいてギリギリの燃費運転をしたときは苦しくもメチャクチャ楽しかったです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?