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Vの二次創作にまつわる話

「俺も絵心あったらファンアート描いて推しに認知されて~」と下心満載の願望を抱いたことはないだろうか。私にはある。まぁ絵というのはそんなに甘いものではないから、仮に絵心があったとしてもその下心が災いしてきっと私はロクな目には会わないだろう。

少なくともそのような根性を原動力にするならば、すでに行動に移せていないことには実を結ばないし、完成しないというのは、形は違えど音楽をやっていたから、なんとなくわかります。

同じくVを推す知人と「絵とか描けたらな~」と推しを推す気持ちをなにか形の残る物に出力して共有する術を持ち合わさないことを悔やみ、その傷をなめ合ったクッソきもち悪い思い出もあります。

中には絵を描く人の間でも二次創作をする人というのを親の仇のごとく嫌う人も居るらしく、実力ではなく推しの人気でRTやファボを稼いで嬉しいか!みたいな横やりを食らって、ついには描かなくなってしまった知り合いもいる。

嫉妬という概念が存在する以上、隣の芝は青く見えるから、ファンアートを描いてそれに評価を得たり賛同を得たりという過程は決して楽な道のりではなく並大抵のことではないのだが、絵は目につきやすいから出来上がった絵は一瞬で視界に飛び込んでくるし、その一瞬視界に写った結果だけをみて羨ましく思ったり、逆恨みされたりが付きまとうらしい。承認欲求や営利とかが事をややこしくしているように思う。

私には絵は描けないけれど曲なら書けるぞとファンソングを作ってみたことがある。もちろん本人に届くとも思っていなかったし、届くはずもなかったが、同じ推しを推す見ず知らずのツイッターアカウントから2~3件の賛同を得られ、なんだか世界に自分ただひとりだけでないというような嬉しさを感じたりした。

きっと、本来の二次創作やファンアートは伝え足りない思いや、形に残したい気持ちがあって、それに持てる技術を注ぐのだと思う。数字や結果にのみ執着せずすむだけの余裕が必要なのだ。

別に、ファンアートの絵を描けなかったり、配信サムネイルへの登用されなかったからといって推す気持ちが偽物だったり、優劣が発生したりする訳ではないし、配信で使われた絵を描いた人の方が偉いとかそういうのは、コンプレックスを抱いているこちら側の勝手な言い分である。

結局、絵が描けたら俺も…と思っている人は、絵が描けるようになったとて、別の欠落やコンプレックスを自分の中で勝手に発見して、嫉妬の渦に飲まれることになる。フォロワーがもう1桁多かったらとか、始めるのが多かったからとか、そういう風に。

きっと、本当は絵を描きたかったが描けるようにならなかったコンプレックスのようなものを、したかったけど出来ないでいる自分に宿る悔しさのようなものを拗らせるのだと思う。

他人に出来て自分に出来ないことや、自分に無いものに目を向けて自給自足で勝手に凹む前に、本当に自分の手元にある道具を使い切っているだろうか。絵は描けないが私は曲を書けたように、コメントしたり、ツイートすることもファン表現であるわけだ。

凹んだり、他人を妬む前に、君は推しを推す自分をやり切ったか。私は、まだまだである。

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