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飽きることにビビってない?

 飽きることにビビってないですか。私はビビってます。平たく推しなどと呼ぶVtuberから提供される配信などのコンテンツに精神生活の多くを支えられ、それでなんとか生きながらえているといった心象風景でもって日常をやり過ごす私のような厄介オタクであれば、飽きてしまったらどうしようと不安に苛まれた経験はないだろうか。

 飽きるというのはとても無情で前触れもなく、コンテンツを発信する側がどんなに精進してパフォーマンスを高めていたとしても、受け手の心情や現状の変化により不意に発生するという側面が強いがために、何かコンテンツのフォロワーとして申し訳なさや、ふがいなさを勝手に感じてしまいがちであり、飽きてはいけないと不要な無理や義務感を自身に強いがちである。

 飽きたら飽きたで仕方はないのだと思う。しかし、飽きたことを自分が勝手に飽きたのだからコンテンツは悪くもなんともないという結論に至り、それを当事者事として受け取れるかというと、そこまで私たちの心は強くもないように思う。熱を感じていたコンテンツからの心の離れというものを飲み込み、消化するということは容易いことではない。単に自分の心が離れたというだけなのだが、そのシンプルさが邪魔をして不要な意地やプライドの手前、変わってしまったとか、マンネリ化したとかいって、責任の一旦や全てをコンテンツの側に求めてしまいがちである。

 飽きることへの恐怖心は、それに伴って自分の心に大きな穴があいて、大切な何かを失うのではないかと思うからこそ感じるのだと思う。客観的に他人事としてみれば精神的な依存をしすぎていると言い切れるが、当事者としては事実として心に大穴があくわけだから、ただ事では済まないという肌感覚も理解できる。

 今のところ私はVtuberの厄介オタクをしていて、それがアイデンティティであり、それによって精神的に生かされているといっても過言ではないわけだから、飽きてしまったらその期間の長い短いは未知数であるが、少なくとも心に穴があいて何を支えに生きていけば良いか分からなくはなる期間が生じると思う。心の支えが無くなるわけだから、その不安はきっと想像を超えてくる。新型コロナや震災や原発事故でもそうであったように、想像を超えた不安を前にすると人は必ず少なからず精神的なバランスが揺らぎ、ヒステリックな側面が露呈して、大なり小なり攻撃的になるものであるし、私も人である以上は例外でないのだから、さらに不安は大きくなる一方である。

 何かに夢中になることと同じように、飽きたり心が離れたりすることも、良い悪いではなく自然の摂理のひとつであろう。きっと人は夢中になって初めて飽きられるわけだし、飽きられるからこそ次の何かに夢中になれるのだと思う。無理に飽きないようにしようとしたり、飽きてなお味気なさを摂取し続けたりする方がよっぽど不自然で不健康である。しかし、実際にそうなった場合に私の理性や思考が追い付けるだろうか。今後、私が飽きる日が来たときは、立つ鳥として跡を濁さずありたい。私は本当にそうあれるだろうか。

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