見出し画像

同じ数字も”違う”のだ

  先日、私の推しのひとりがチャンネル登録者数100万人を達成し大変な多幸感に満たされていたところ、既に100万人を達成している同事務所所属の別の推しを持つ知人から私の推しを指差して「あんまり配信してなくても100万って行けちゃうんだね」と意図してか無意識かは知れないが、とにかく皮肉的で嫌味な横やりがブッ刺された。刹那、殺意が芽生えてキン肉バスターの2、3発をブチかましてやりたいところではあったが、私にキン肉バスターの心得がなかったことに加え人目も多く、しばらく整理がつくまでこちらから積極的に話すこともないだろうと理性が働き、傷害罪での現行犯逮捕は避けられた。

 恐らく、知人の推しが登録者数100万人を達成するまでに知人が観測できた知人の推しの努力というか紆余曲折あったその道のりに比べて、事実は決してそうではないとしてもある種の偏見や誤解があって、私の推しの100万人までの道のりやその紆余曲折について、その知人の推しが達成した知人が知る100万人のそれに比べると、失礼とか善し悪しの判断を抜きに感想として物足りないというか及ばないような印象を受けて知人はあんまりだと思ったのだろう。

 ふざけるなと思ったし少なくとも失礼な話ではあるから、私もキン肉バスターをブチかましたくなったわけである。同じ字面で全人類に共通で且つ平等に見える数字であっても、そこには個体差があるということと、それについて不要な争いを避けるために繊細な配慮が必要であるように思った。

 知人から見た私の推しの100万人は理不尽で納得がいかないものに見えたらしいが、同じ理屈で自分の推しの節目について向けられた感想が理不尽で納得がいかないと感じ、私の推しの100万人も決して楽したりズルしたりじゃあねぇんだぞと私はカッとなったわけだ。お前が知らないだけでその結果に値するだけの紆余曲折や葛藤や努力というのが、見え方や形が違っても、確かにこちら側の推しにだってあったのだぞと言いたい気分であった。

 そもそも、しようとも思わないが、私はお前の推しだって炎上もあったし休止期間もそれなりに長かっただろう!みたいな反論はしていない。そこだけは本当にあたりまえのことだとしても褒めて欲しい。この手の不毛な争いは一刻も早くこの世から消し去らなければならいし、止められるなら自分のターンで食い止めるべきだ。

 知らないからといって否定したり馬鹿にしたりしてはいけない。100万人であれ、1000人であれ、何の努力もなしに到達できるものではない。私の個人的なYouTubeチャンネルの登録者数なんて34名で、それでもそれまでに10年を要している。私がその知人の推しの軌跡を詳しくは知らないことや、きっとそこに誤解や思い込みもあるように、知人も私の推しについて知らないことや偏見があったことであろうが、だとしてもそれを言葉にするべきではなかったのだと思う。

 ましてや、それを応援している人になんて、なおさらである。他の何かを卑下するタイプの比喩や比較はその全てが不適切であると思っているぐらいで丁度いいのかもしれない。100万人だけに限らず記念や節目については、そうなるだけの理由や紆余曲折があってはじめて到達できる場所であるから、比較の末に否定される筋合いはないし、比較して否定する権利を誰も有さない。

 私の知人が放ったものと同じ類いの感想や意見が、当のライバー達にも届いているとしたら由々しき事態である。ひとりひとりは小石のつもりであっても届く頃には致死量である。自分の推しに胸を張りたい気持ちはわかるが、だからといって誰かの推しを悪く言ったり、誰かの推しの喜ぶべきことを否定したり、そんなことしなくてもいいではないか。自分の推しを大切にするのと同じように、誰かの推しや誰かが推しを推す気持ちも大切にしろ馬鹿野郎。

 君の推しの100万人も、私の推しの100万人も、どちらがどうとかではなく、それぞれがそれぞれに尊く、喜ばしく愛おしいものであるという簡単なことが、どうしてこうも難しいのかと頭を抱える日々が以降続いている。ゼロサムや外集団同質性バイアスなんて言葉が発明されているぐらいだから、そもそも我々にこの種の葛藤や衝突を解決する術はないのかもしれないと思うと、なんだか物寂しいではないか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?