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クズがクズVtuberに安心する構図

 私はVtuberの厄介オタクしている者であり、Vtuberの社会人としていかがなものかと思える側面を見つけると不快感ではなく緩和剤的に心の緊張がすこし解れるのを感じる者である。私はクズVruberに安心するクズということになる。何を言ってるんだろう?と思っても少しだけお付き合い願いたい。

 バーチャルの存在相手に自分のことを棚に上げて社会人としていかがなものかとか言う前に、私は新卒で就職できず社会人になれなかった身である。三十路独身の実家暮らしで非正規雇用の手取りは月12万円に満たない。借金こそ今は無いが、私も一端のクズに他ならないので、Vtuberに至らなさがあったとて不快感よりも仲間意識に近いものを感じるし、仮に不快感を感じようにもどの口が言うのかという話になる。普通は社会に出る歳になるまでに身につけられるし、身につけておくべき能力の多くを私は取りこぼしてしまった。シンプルに他人より圧倒的に出来ることの少ない役立たずが私である。

 社会も効率化が進む中で、テキパキと仕事をこなすメリハリのある人が活躍しているし、その姿が目に留まる。もちそん、そういった姿に憧れたが、ミリも届かなかった私のようなグズグズの底辺から見れば社会で役目をこなす普通の大人たちがアイアンマンかターミネーターみたいな存在に思える。少なくとも社会に出る以上、仕事のことでは完璧に近くあるべきだし、それ当たり前であるから、そうなれない自分というのは自他ともに認めるゴミであることに異論はないし、その余地もない。

 私の場合、小学校生活を営むころにはもう社会的な居場所は無かったから、社会と縁が切れた時期は早い方なのかもしれない。なんとなく、何も出来ないわけだから自分の居場所などこの世の中に無さそうだなと思って生きていたら、その予感が当たったわけだ。求められる水準にはいつも届かないし、期待にはこらえられない。普通出来ることが出来ないわけだから、理解もされない。なんでこんなことも出来ないのか?今まで何をしてきたのか?そう問われ続ける時間が即ち、寿命の時まで残る私の人生のすべてであろう。

 私にとっての社会や現実の世界はアベンジャーズが闊歩する冷戦下の戦場のように思えて、そこでの私は薄汚れたスライムといった具合に丸腰以下の雑魚なわけだから基本的に生きた心地はしなかった。些細な欠落も到底許されない場合も往々にしてあるというのに、私には莫大なそれがあって、絶えず精神的に多額の負債を背負っているような心模様であった。そういった理由で物心を覚えて以来、自分など生きていて許されるのだろうかという不安を感じなかった日はない。

 しかし、Vtuberには欠落を個性として許容される側面が生じる場合がある。それが全てでは全くないし、ふざけるなと重箱の隅を突かれる場合がほとんどだが、ほんの少しだけ極めて例外的に欠落も個性として供用される場合がある。そのことが効率化する社会から完全に置いていかれたグズグズの底辺たる私の精神的な救いになったのだ。

 当然、出来る人が華々しく活躍する。しかし、出来ない人はどこに消えてしまったのだろうと思いながら、自分がその最後の生き残りであるような絶滅危惧種的な心持で生きてきた。そんな私がVtuberの寝坊なんかを見て安心する時、感じているのは人間味なのかもしれない。この感覚は少なくとも現実と向き合っていたころに感じたことのない感覚であった。自分のどうしようもなく役に立たないことについて、否定され続けてきたし、それは当然のことである。しかし、当然のことであるがしんどかった。どうしようもないことを、どうしようもないことのまま、肯定も否定もしないで存在しても案外許されるのかもしれないと私に教えてくれたのは、大幅に集合時間から遅刻したVtuberとその周囲の雰囲気であった。

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