見出し画像

推しとの距離感がわからない自分がキモくて嫌んなる

 私はVtuberの厄介オタクをしている者であるが、コミュ障を拗らせているため、推しや関連コンテンツとの距離感や、ファンとしての立ち位置について思い悩む機会が人より多い。別に距離感に悩んでいたところで、基本的には居ても居なくても問題ないレベルの潜伏オタクであるから、特に実害もなく、何の問題もないと言えばそうなのだが、心もとないというか、精神衛生が良いというわけではないので、改善できるものならしてみたいと思った。

 もともと、他人との距離感がつかめないまま大人になってしまったから、そのコミュ障っぷりと言ったら、駅の窓口でどう話を始めていいか分からず定期券の購入が遂にはできなかったり、挙動不審から受けた職務質問で喋れなさ過ぎて薬物所持を疑われたり、同窓会が開催されていたことをフェイスブックの投稿から数か月遅れで知る程である。そんな人生であるから、私にとって友や恋人といった親密な他者など絶えずファンタジーの世界であったし、自分の心との距離感も分からないわけであるから、自分以外の他者やコンテンツとの距離感を図ることなど、土台無理な話であった。

 つまり私は距離感の図れない孤独な中年男性ということになるのだが、距離感の図れない孤独な中年男性というやつはオジサン構文などに代表されるように、開き直ったり無自覚だったりして、膨れ上がった自我が暴走すると生きているだけでその対象にとって気色が悪く煙たがられるし迷惑をかける存在と化すわけである。客観的に私のこの悩みもいい年を過ぎた大の大人が「推しとの距離感わかんないんだよねェ~…ww……」と引きつったニヤケ面で話しているのかと思うと、どの口が言うのだろうと気色が悪い。一般的に居場所ぐらい自分で見つけろよという話であるし、居場所などそう意識するものでないのかもしれないが、それが出来ない人種にとっては、どうしようもなく心細くて心をすり減らし続けるしかない事柄だったりするのだ。

 コメントなど打つ際、キモくならないように細心の注意を注ごうと思うが、キモくならないように注意するという心模様そのものがこの上なくキモい。幼少より対人関係に事故ってしまったコミュ障はどうあがいてもキモいのかもしれない。まぁ私の場合だと席替えで隣になった女子が泣くぐらいだから実際問題キモいはキモいわけで、俺ってキモいんだなと思いながら最初からずっと生きてきたけど、これが死ぬまで続くのかと思うとなんとなく多少は寂しい気持ちにもなる。

 あと、普通に考えて現実よりイラストの方が良いという趣向・性癖が客観的に理解不能でワケわからんよっていうことも、悲しくはあるが一定の理解ができてしまう。結局、リアルを充実させられなかったり、現実の人間関係じゃ通用しなかったりしたから仕方なく現実逃避的に二次元にのめり込んだ側面もあるのだから、客観的に見たら自分のオタク趣味など焼きそば屋でひとりだけ輪ゴムをしゃぶっているようなものなのだと思う。となると、やっぱ超キモいわ。焼きそば買やいいじゃん?食えないの?なんで輪ゴム?ってか味すんのソレ?って聞きたくなるのもわからなくはない。

 キモいやつが好きなコンテンツ=Vtuberと思われるもの癪だし、Vtuber好き=キモいと思われるのはもっと癪だが、私自身がキモいことはどうしようもなく事実なので、やはり私のようなキモオタ距離感拗らせコミュ障オジサンはコメントやツイートなど極力せず、無色透明で無害な空気としての潜伏を目指した方が良いかもしれない。胸を張れないことが情けなく、自身のキモさが身に余る。己の推しライフの在り方についてを考え直しているうちに今日も貴重な昼休みが終わってしまった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?