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Vtuberってどれも同じじゃない?

「同じじゃないよォー!!目ぇ凝らしてェ!!!」
 失礼、心の声が大音量で漏れ出てしまいましたが、Vtuberってどれも同じじゃない?と聞かれたことはないだろうか。私はあるし、多少は腹が立ったがこれは仕方がないと思った。車が好きでない人を前にすればスーパーカーも車高が低くて平べったいという共通点以外でその違いは分からないだろうし、好き好んで見聞きしている者でないと同じグループで何十人といる大手アイドルを前に個々人の区別など難解できっと同じに見えてしまうのと同じことである。

 かくいう私も50名前後が所属する平たく箱推しに近い感覚でいるプロダクションのライバーについて誰が誰かひとりひとりの違いがある程度なら分かるが、知人が推している48人態勢と定型とするリアルアイドルグループだと誰が誰かなど全く分からないし、その逆も同じである。普及が進み、数が飽和の兆しを見せ始めた後のコンテンツというのは、その1歩目を深めに踏み込まないことにはその区別や理解が難解になってしまうものなのかもしれない。

 きっと、これは型の定着なのだと思う。模倣からしかコンテンツが発展しないように、Vtuberに関しても大枠である一定の型が定まってきたのだと思う。型を会得しないと型破りも体を成さない手前、まずは型を覚えるところから誰しも活動を始めるわけだから、そこが似通って見えるのだろう。ボーカロイドブームとかラーメンブームでも似たようなことがあったから、きっと人やインターネットはまた繰り返すのだろう。

 例えとして牛丼なんかを思い浮かべてほしい。どの店も主に肉と米によって構成されるわけだから、同じであると言い切ろうと思えば言い切れる。しかし、そこには違いがあって、愛好家はそれを理解してその深みを楽しむわけだ。肉も米も使わない別の料理を全く新しい牛丼の型破りである!と言っても無理があるように、マンネリ化と指さす人もいるようなコンテンツとしての大きな柱というのは、型として至極重要である一方で、厄介な悩みの種的な存在だったりする。案外、「Vtuberってどれも同じじゃない?」というのは「ここの牛丼も肉と米かよw」というのと同じぐらい野暮な話をしている側面もある。

 しかし、専門店のジレンマがついて回ることになる。オムライス専門店から薄くて硬い卵にケチャップの古風で伝統的なオムライスが無くなっていくように、オムライス専門店は、オムライスなのに今までのオムライスとは違う付加価値のついた難解なオムライス像を期待され、その専門性を謳えば謳うほど提供するオムライスの内容は、従来の本質的のオムライスの内容とはかけ離れて行ってしまうのである。オムライス専門店の商品がオムライスであること以上の付加価値を要求されるように、型の定着する過程で見慣れたり飽きが回るなかで、型破りや型を超えたパフォーマンスを期待され、型を会得しただけでは見向きされなくなっていくことになったわけだ。Vtuberに関してもこれと同じことが起こっている。

 Vtuberも広く普及が進み、Vtuberであるという型を会得しただけでは見向きされない過酷な時代へ既に突入している。しかし、いくら時代柄そのハードルが多少下がったとはいえ、Vtuberとしての型の会得や活動の継続そのものが容易いというわけでは決してない。その荒波を超えてデビューし活動する者や、新しく出会ったVtuberに「なんだ、また吸血鬼か…」と幻滅するのではなく、その吸血鬼ライバーという型の中で既に知っている吸血鬼と違う味や個性を見出せるような、そんな深みの分かるオタクでありたいものだ。

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