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ファンの鏡はどこにある?

 私はVtuberに関する厄介オタクであり、ファンと呼ぶには精進が足りないと顧みる機会が多い。この杞憂こそが意味の無い虚無そのものであるが、数量限定のグッズ争奪戦に競り勝ったり、ライブには現地から参戦したり、歴史を物語るメンバーシップのバッチを輝かせ、経済的にも精神的にも推しを支えているに違いないような、ある種の立派なファンを目にすると、ファンの鏡だと感じたりする。

 私が思うファンの鏡という神話じみた空想には、恐らくコンプレックスに基づく個人的な嫉妬や自責の念も多く含まれていることだろう。自分はそうなれないという情けなさと、本来感じるべきではないような“こうあるべきでないか”という勝手な義務感と、輝かしく見えることへの羨ましさが大きい。“嫉妬深い人は実力がないだけである”といったような趣旨のツイートを目にし、ぐうの音も出なくなったことが記憶に新しい。私にはファンと呼べるだけの実力も実績も戦闘力もないのである。

 さて、Vtuberに関することで鏡という言葉を用いる比喩で、リスナーは配信者を映す鏡であるとする場合がある。この比喩に対して質の悪いリスナーも配信者の言動に由来するものであり配信者の自業自得であるという意味づけに関して断固として私は否定的な立場をとらせていただくが、もし仮にリスナーが人ではなく鏡の姿をしていたならば、配信者たる推しの姿はその鏡にバッチリ映っていることだろう。ときに、その逆を言う場もある。配信者はリスナーを映す鏡であると。

 仮に推しが鏡の姿をしていた場合、その鏡には何が映っているのだろうか。恐らく私の姿は映らない。しかし、推しという鏡に向けて、手段を選ばず悪戯に映り込もうとすることだけが必ず正解であるとも限らないように思う。ひょっとして、私のような厄介オタクな人種は推しという鏡に映り込まない方が良いのかもしれないとさえ思う。一度ぐらい映り込んでみたいと思わなくもないが、正攻法では無理を感じていて、ならばこのままで良いと思う。そうなると”その場しのぎで笑って 鏡の前で泣いて 当たり前だろう 隠してるから 気付かれないんだよ”と歌うBUMP OF CHICKENのギルドの歌詞が心に沁みる。

 推しの空気になりたいとよく言ったものであるが、それはあくまで前提として無害でありたいという意味も込めて呼吸に必要な方の空気を指すものであったが、現状として私は実体がなく居ても居なくても分からないという意味の方で空気と化していて、推しの空気になりたいという夢は皮肉にも形を変えて既に叶っていたのかもしれない。私はファンと呼べるのだろうかとか、ファンたりえるにはどうあるのが正解なのだろうと悩みながら、神話じみた勝手な空想に理想的なファンの鏡をいつも探してしまう。その時点で私はもうファンとは呼べる代物ではない。

 ファンの鏡はどこにあるのだろうか。その鏡に私の姿はきっと映らないと分かっていても私は己の弱さから、ありもしないファンの鏡をずっと探してしまうのだろう。

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