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ガチ恋の恋は本当に恋か

 私はVtuberの厄介オタクをしている者であるが、そのメリ込み具合が目に余ったのであろうか知人から「ガチ恋勢かよw」と嘲笑のいくつかを頂戴する機会があった。そういえば、ガチ恋という言葉は見慣れていて馴染みもあるが、自分はそれに含まれないだろうという自信があったというか、自分はガチ恋勢じゃないという前提みたいなものが自分の中にあって、正直うろたえた。それだけで既に厄介オタク感が満載ではないか。ワクワクしてきたな。今日は自分が向けられたガチ恋疑惑について考えてみようと思う。少なくとも、その知人から見た私はガチ恋勢の端くれか、そこに片足を突っ込んでいる奴に見えたわけだ。

 知りたいのはこれが恋にあたるか否かなのだが、その疑問で既に気持ち悪いが過ぎる。私は中年男性だぞ。しかし、恋愛の経験がない。うわぁキショい。客観的に考えたら寒気がするが事実である以上は仕方がない。

 もともと、私は現実の女性がアイアンマンにしか見えない呪いにかかっている。理由は簡単で、小学生ぐらいころからクラスメートを筆頭に執り行われた私に死ねとか消えろとか言う環境美化活動の一環で、私の容姿について「シュレック」と比喩して、触るな!緑が感染る!とか言うのが流行した際のカウンターとして、だったらこっちは「アイアンマン」だと、攻撃的な言葉を投げかけてくる連中を等しく脳内でアイアンマンに変換して対応していた名残で、今も特に女性の他者はアイアンマンに見えてしまう。アイアンマンに失礼なことをしたと後悔も残るが、シュレックも私と違って心がキレイなのだからシュレックにも失礼である以上はお互い様であるということにしておいてほしい。

 なにはともあれ、どこからが恋か?みたいな中学生的な悩みを質感そのままに背負っている中年なんて気持ち悪いが過ぎる。独身男性ならなおさらだろう。そりゃ厄介オタクにもなるさ。悲しいかな自分の話である。こちとら青春と初恋を10代に忘れてきた童貞オジサンだぞ。甘く見ないでもらいたい。

 さて、私のように現実の恋愛経験がない連中がガチ恋勢の端くれに見えている訳だから、ガチ恋の恋は恋愛の恋と本質的に異なるのではないかと疑問が残る。現実で執り行われる全うな恋愛と比較した際に、私のガチ恋勢疑惑の発端にあるそれは酷く一方的であるように思った。たとえば、ストーカーとかみたいに基軸は恋愛感情であっても恋とは呼べないものがこの世にはたくさんある。どちらかというと、私のそれはストーカー側に近い気がした。

 オブラートにつつめばファン感情なのだろうが、一方的で肥大化した好意というのは行き場やコントロールを失うと厄介以外の何物でもないし特級呪術に他ならない。一方的に肥大化する好意のやり場としてガチ恋と言う言葉が発明されたことの恩恵について、それはそれとして受け取りながら、その口当たりの良い言葉の裏で自分が感情的な側面で怪物級の危険物を背負っていることを忘れないように気を付けたい所存である。悲しいことにクッソ気持ち悪い一方的な恋愛感情を抱いている可能性があるんだ我々には。

 一方で、近い時期に別の知人でガチ恋勢を自称する者から、推しのVtuberみたいな子と付き合いたい、何なら推しと付き合いたいみたいなLINEが飛んできたときに、ガチ恋の恋は恋愛の恋と思ったより近いのかもしれないとも思ったり、ひょっとすると恋愛の恋より数段ヤバイのかもしれないとも思ったりした。そこに言葉と枠が設けられた以上、上手く付き合えばガチ恋はお互いに良い事もあるだろうが、ガチ恋の恋には本物の恋愛より深い闇があるのかもしれない。嘘偽りのない気持ちほど純度の高い狂気的な凶器は他にあまりないわけで、向ける好意が偽物でない以上、本物の気持ちが暴走しないように日々のメンテンナンスが急がれる。

 恋人もストーカーもガチ恋勢も、きっと好きを思う気持ちに差は無いが、その用法容量を見誤ったか否かの差が存在する。知人に指摘させるほどだから私も一方的に膨らむファン感情が度を越えていることが明かである以上、ひょっとすると既に私もストーカー側のガチ恋なのかもしれないと強めの寒気がした。言動に気を付けなければいけないではないか。

結論。ガチ恋も、恋であるから、気をつけろ。

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