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【随筆】【文学】オホーツク挽歌考(三・当て外れ)

 閑話休題のような話。あるいは緩徐楽章か。
 「オホーツク挽歌」関連の詩碑は他にどこかあるのか?と調べてみたら、旭川にあることが分かった。私が滝川市内で合宿をしながら映画を撮っていた時のこと。負け戦だった。間違った場所に穴を掘り続ける日々。気晴らしに旭川まで出かけよう。青空の下、旭川駅から常磐公園、市役所の前を通って六条十ニ丁目の旭川東高等学校前まで、見通しの良い、広々とした碁盤の目状の道をぶらぶらと散歩していると、堂々たる「旭川」詩碑が目に入った。

  こんな小さな敏渉な馬を
  朝早くから私は町をかけさす
  それは必ず無上菩提にいたる
  植民地風のこんな小馬車に
  朝はやくひとり乗ることのたのしさ
  「農事試験場まで行って下さい。」
  「六条の十三丁目だ。」
  馬の鈴は鳴り馭者は口を鳴らす。
  黒布はゆれるしまるで十月の風だ。
  一列馬をひく騎馬従卒のむれ、
  この偶然の馬はハックニー
  たてがみは火のやうにゆれる。
  馬車の震動のこころよさ
  この黒布はすベり過ぎた。
  もっと引かないといけない
  こんな小さな敏渉な馬を
  朝早くから私は町をかけさす
  それは必ず無上菩提にいたる
  六条にいま曲れば
  おゝ落葉松 落葉松 それから青く顫えるポプルス
  この辺に来て大へん立派にやってゐる
  殖民地風の官舎の一ならびや旭川中学校
  馬車の屋根は黄と赤の縞で
  もうほんたうにジプシイらしく
  こんな小馬車を
  誰がほしくないと云はうか。
  乗馬の人が二人来る
  そらが冷たく白いのに
  この人は白い歯をむいて笑ってゐる。
  バビロン柳、おほばことつめくさ。
  みんなつめたい朝の露にみちてゐる。

旭川
「旭川」詩碑

 「旭川」も宮沢賢治の1923年夏の北海道・樺太旅行から生まれた作品で、「春と修羅」(1924年)に収められなかった補遺5編のうちの一つになる。
 7月31日夜に花巻を発った賢治は、8月2日午前4時55分に旭川駅に到着したと推定されている。賢治は小さな馬車に乗り、六条十三丁目の農事試験場を目指すが、その間の移り行く情景をスケッチしたのが長詩「小岩井農場」を思わせる詩風の本作だ。馬車やハックニーという道具立ても、「小岩井農場」への連想を誘う。
 精神の暗闇を一人歩むように悲愴で、緊張感が張り詰めた「オホーツク挽歌」詩群の中ではひときわ異彩を放つ、早朝の清々しさでいっぱいの、寛いだ気分の作品となっている。こうした相反する二重性――すなわち「春」と「修羅」――こそ、賢治の作品、その人間性の本質ということになうろか。8月の北海道、湿度の低い、内地とは異質の爽快な空気感、そのひんやりとした朝露の中、馬車に揺られる至福感は無上菩提=最上の覚知、仏の悟りという最大級の喜びの表現をとなる。
 実際には目的地の農事試験場は郊外の永山に移転していた。当て外れだったわけだ。賢治はしかたなく引き返したのか?賢治の旭川立ち寄りについては、石本裕之氏の好著「宮沢賢治 イーハトーブ札幌駅」に詳しい。
 「オホーツク挽歌」行の目的、「亡妹トシとの交信」など達成されるはずもない望みに違いない。科学者としての賢治の明晰な“理智”は、宗谷海峡まで渡る極北への幻想の旅が、壮大な<当て外れ>に終わるであろうことは半ば、いや十分に分っていただろう。
 この点について、見田宗介は「けれどもこの愚行を助走しつくすということをとおしてはじめて、異の空間への離陸もまたありえたのだということを、詩人の非意識のもっと大きな<明晰>は見ていたのだろうと思う」と述べている。若かりし日に読んで、特に心に響いた一節だ。引かれた傍線の力強さがその時の感銘を思い出させる。「異の空間への離陸」とは、直接的にはこの挽歌行の<解放>としての「銀河鉄道の夜」の成立ということになろう。ただこの一文はもっと広い文脈、深い意味で捉ええると思う。「愚行を助走しつくす」という言葉の切実さは、私にとって昔も今も変わらない。

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