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【随筆】【文学】オホーツク挽歌考 (二・先取り)

 こんなやみよののはらのなかをゆくときは
   客車のまどはみんな水族館の窓になる
      (乾いたでんしんばしらの列が
       せはしく遷つてゐるらしい
       きしやは銀河系の玲瓏(れいらう)レンズ
       巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる)
   りんごのなかをはしつてゐる

青森挽歌

 「オホーツク挽歌」詩群の劈頭を飾る、この詩群中最長の252行にも及ぶ「青森挽歌」は、レンズやりんごに比せられた銀河の中を疾走する夜汽車という鮮烈なイメージをもって始まる。「銀河鉄道の夜」の冒頭、「午后の授業」で「中にたくさん光る砂のつぶの入った大きな画面の凸レンズ」に譬え説明される銀河や、燈台看守からジョバンニら一行にふるまわれる「黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果」と反響するのは明らかだろう。オホーツク挽歌行はその出発からして、「銀河鉄道の夜」のキー・ヴィジュアル、原初的イメージを<先取り>しているかのようだ。
 そういえば見田宗介(1937年~ 2022年)もそのわくわくするほど誘惑的な宮沢賢治論をこの詩の冒頭の引用から説き始めていたことを思い出し、久しぶりに手に取ってみた。そこら中に引いてある傍線をなつかしく見た。

あいつはこんなさびしい停車場を
たつたひとりで通つていつたらうか
どこへ行くともわからないその方向を
どの種類の世界へはいるともしれないそのみちを
たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか

かんがへださなければならないことは
どうしてもかんがへださなければならない
とし子はみんなが死ぬとなづける
そのやりかたを通つて行き
それからさきどこへ行つたかわからない
それはおれたちの空間の方向ではかられない
感ぜられない方向を感じやうとするときは
たれだつてみんなぐるぐるする

青森挽歌

 この旅の目的について一般には、前年に亡くなった妹とし子との通信を求めたと説明されている。おそらくその通りなのだろう。それも大真面目に。
 ただずっと不思議に思っていた。そもそも、どこからそのような発想が出て来たのかと。転生した亡き人の魂と交信するなどという教えは、宮沢家を深く浸したモダンな真宗にも、賢治が身命を賭した先鋭的な日蓮宗にも、ないのではないか。むしろ、昨今のチープなスピリチュアリズムとの親和性すら感じられる。実際、交霊術とか、その手の非仏教的な妖しい術で、転生したトシの魂を呼ばわろうとしたのではないかという論考まである。あり得るように思う。

(宗谷海峡を越える晩は
 わたくしは夜どほし甲板に立ち
 あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり
 からだはけがれたねがひにみたし
 そしてわたくしはほんたうに挑戦しやう)

青森挽歌

 旅程の先、宗谷海峡を渡る時、何らかの儀式めいたことを試みようと考えていた――先走るのはやめよう。

 わたくしの汽車は北へ走つてゐるはづなのに
 ここではみなみへかけてゐる
 焼杭の柵はあちこち倒れ
 はるかに黄いろの地平線
 それはビーアの澱(おり)をよどませ
 あやしいよるの 陽炎と
 さびしい心意の明滅にまぎれ
 水いろ川の水いろ駅
 水いろ川の水いろ駅  (おそろしいあの水いろの空虚なのだ)
 汽車の逆行は希求(ききう)の同時な相反性

青森挽歌

 全体に難解な作品だが、特にこの部分は、北へ走っている列車が南に走っているとか、昔読んだ時はわけが分からなかった。実際はなんということはない、賢治が乗った東北本線には南下する区間があるのだ。下北半島と津軽半島の間、夏泊半島の突端・小湊駅で進路を南西に変え、浅虫温泉駅を経て青森駅まで、列車は南下する(現在は第三セクター「青い森鉄道」)。北上する列車が南下する、この不思議な感覚を賢治は「汽車の逆行は希求(ききう)の同時な相反性」と表現したのだろう。過去(=南)から未来(=北)に流れていた時間が未来から過去に逆流する――この詩編の満たす<先触れ感>を象徴するかのようだ。あるいはハイデッガー流の時間意識で言えば、将来、可能性への「先駆=Vorlaufen」という言葉になるのだろうか。

(ああけれどもそのどこかも知れない空間で
   光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか
   …………此処(こご)あ日あ永(な)あがくて
      一日(いちにぢ)のうちの何時(いづ)だがもわがらないで……
     ただひときれのおまへからの通信が
     いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ)

風林

 この鉄道旅行からして、トシの死から約半年にも及ぶ長い沈黙を破って書かれた作品、すなわちこの鉄道旅行の二か月前の日付を持つ詩「風林」の一節で、<先取り>されている。いつかの汽車のなかで届いている妹からの通信、逆行する希求――。

 こんなさびしい幻想から
 わたくしははやく浮びあがらなければならない
      《みんなむかしからのきやうだいなのだから
       けつしてひとりをいのつてはいけない》
 ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
 あいつがなくなつてからあとのよるひる
 わたくしはただの一どたりと
 あいつだけがいいとこに行けばいいと
 さういのりはしなかつたとおもひます

青森挽歌

 この長大な詩編の最終部分である。旅程の通常の時系列でいえば、旅の帰途に書かれた「噴火湾(ノクターン)」の、いじけた気持ちで妹の面影を探し続ける自己の再認識、その深い嘆きが結論のようなもので、この旅全体が救いも解放もない、無益な円環構造のようにも思える。
 しかし「青森挽歌」の結語で示唆されているのは、非常に高い大乗仏教的な境位である。旅の出発の一つの<決意>のようなものが、既にして旅の最終地点の、遥か先を駆けているかのように――「みんながカンパネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんななんべんもおまえといっしょにりんごをたべたり汽車に乗ったりしたのだ」――それは遠く、しかしまっすぐに、「銀河鉄道の夜」、初期形第三次稿に登場し、最終稿からは忽然と姿を消してしまったあのブルカニロ博士、セロのような声をした、黒い大きな帽子を被った人の言葉にまで反響していないだろうか。

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