見出し画像

【随筆】【文学】善蔵を思う(二)

 葛西善蔵の「贋物」(1917年)はこんなような話だ。
 主人公は東京での生活が破綻した作家。故郷・青森での新規まき直しを目指すも、例によっての“あまーい”考えと生活態度で、親族らとうまくいくはずもなく、肩身の狭い毎日だ。そんな中、商売をしていた弟が破産の憂き目に会う。弟は親戚から集めた骨董品を兄に託し、東京で売って換金するよう依頼。弟の窮地に兄は一肌脱ぐ。いかにも怪しげな書画類ばかりなのだが…・・・。上京し奔走する兄、しかし、折角の“家宝”、やはりどれもこれもとんだ“贋物”で、全部売り払ったところで、商売の運転資金はおろか、往復の運賃すらままならない。帰郷するための旅費を送るよう手紙を出す兄だが、弟からは梨のつぶてだ……。
 行き場のないどん詰まり、もう笑うしかないというデッドエンドに漂う冷気のようなユーモア、善蔵の真骨頂のような作品だ。やはり善蔵の実体験を基にしているという。作中の作家の妙にノンシャランな生活態度とは裏腹に、<贋物>というテーマには、作者善蔵自身の自己の才能、文学的将来への懐疑や懊悩、自覚的かつ自虐的なアイロニーが込められているのだろう。

 太宰治(1909年~1948年)の「善蔵を思う」(1940年)には、最初から最後まで、タイトル以外に善蔵の名前は一言も出てこない。
 物語は入れ子状の二重構造になっている。外枠は「私」がいかにも“贋物”という「百姓女」から、バラの苗木を押し売りされる話で、中身となるのが、郷里出身の芸術家が集った宴会で、酒が原因で失態を演じてしまう顛末だ。
 酒宴の話は、1939年9月、東奥日報社主催の青森県出身在京芸術家座談会に招待された時の体験を基にしている。これまでの数々の汚名を雪ぎ、郷里の人々に名誉を回復したい、はやる気持ちと気後れと、複雑な思いで出席するのだが、緊張から泥酔し、振り絞るように出した小声での自己紹介に対し発せられた「もういっぺん!」というだみ声に、「うるせえ、だまっとれ!」と怒鳴り返してしまい、周囲はドン引き、さらに悪評を高めてしまう結果に……。
 余談だが、くだんのだみ声の主は棟方志功その人(作中では明示されていない)。太宰と棟方の間で、実際にこのようなやりとりはあったという(「鬼が来た―棟方志功伝」長部日出雄)。また同席した今官一(作品中では甲野嘉一君として登場)によると、会場で“暴走気味”だったのはむしろ今の方で、酔って「演説をしたい」とおだを上げる今を太宰は「よせ、よせ」と懸命にたしなめていたのだが、結果としてそのだみ声に“暴発”してしまったのだという(今官一「碧落の碑」)。
 太宰の念頭には恩師徳田秋声の夫人の葬儀で泥酔して弔辞を読み、失態を演じるという善蔵の「酔狂者の独白」(1927年)中の挿話などがあったのではないかと言われている。一方、バラの話も、<贋物>というテーマで善蔵作品と共振する。しかし、タイトルに込められた“深意”に拘泥しすぎこともないだろう。
 物語の展開に沿って小刻みに揺れ、そして上下する「私」の感情、故郷への愛憎、晴れ舞台への期待と不安、目まぐるしく屈折する心理をスピード感あふれる語り口で畳み掛け、最後はジェットコースターのように大きな失望と希望、不信と信のアップダウン、そしてやや強引な力技でねじ伏せる。
 人口に膾炙した太宰の名フレーズが、要所要所で効果的に投入されるているのも本作の魅力だろう。例えば作品冒頭、「暁雲は、あれは夕焼から生れた子だと。夕陽なくして、暁雲は生れない」。酒宴での失態にすっかり落ち込むと「私は一生、路傍の辻音楽師で終るのかも知れぬ。馬鹿な、頑迷のこの音楽を、聞きたい人だけは聞くがよい」。
 そして物語の結末、“贋百姓”から騙されて買ったバラが、実は本物の一級品であることを友人に教えられると、「青空は牢屋の窓から見た時に最も美しい」。今官一は善蔵の「掘立小舎でいい。津軽の林檎畑の中で、後生を送りたい」という言葉が念頭にあるのではないかと指摘している。粗末な掘立小屋の窓から見る、故郷の小さな青空、つまり、故郷への屈折した憧憬ということであろうか。素直に考えれば、太宰の愛したヴェルレーヌ、実際に牢獄の窓の鉄棒のすき間からのぞき見た青空をうたったという一篇だろう。

屋根の向こうに
 空は青いよ、空は静かよ!
屋根の向こうに
 木の葉が揺れるよ。

見上げる空に鐘が鳴り出す。
 静かに澄んで。
見上げる木の間に小鳥が歌う
 胸のなげきを。

神よ、神よ、あれが「人生」でございましょう
 静かに単純にあそこにあるあれが。
あの平和なもの音は
 市(まち)の方から来ますもの。

――どうしたというのか、そんな所で、
  絶え間なく泣きつづけるお前は、
一体どうなったのか
  おまえの青春は?

「屋根の向こうに」(Le ciel est,par-dessus le toit)堀口大学訳

 私の琴線に触れるのは、蕾すらないみすぼらしいバラに、「枯れるな、枯れるな、根を、おろせ」と念じるところだろうか。生来の根無し草として、何とも身につまされる。

 あえて、太宰の“善蔵への思い”を忖度するならば……。自分は決して郷里には迎え入れられないという疎外感、自己の禀質への強い自負、それと裏腹の俗世間的な栄達など覚束ないという諦念、それでも自分の信じる道を歩むしかないという覚悟――酒宴の話には、「善蔵を生きる」とでもいった資質的かつ同志的な共感を感じる。一方、バラの話では、<美談>への飽くなき意志、<根をもつこと>への祈りにも似た希求――善蔵作品を乗り越えよう、善蔵的な“欠如”を揚棄しようという美学的かつ倫理的な決意を感じる。
 「贋物」と「善蔵を思う」では、<贋物>から導かれる結末が正反対になっている。妻津島美知子によると、太宰が「行商の男」にバラの苗木を強引に売りつけられ、その苗が結局はちゃんと根付いたという出来事は実際にあったという(「回想の太宰治」)。
 さすが太宰。

太宰治

 前回へ   次回へ


公開中の「林檎の味」を含む「カオルとカオリ」という連作小説をセルフ出版(ペーパーバック、電子書籍)しました。心に適うようでしたら、購入をご検討いただけますと幸いです。