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メアリと魔女の花と科学のあり方、イギリス

メアリと魔女の花を見て、衝撃を受けた。魔女の宅急便やハウルの動く城、ハリーポッターを彷彿とさせるシンプルなジブリ的ファンタジーかと思いきや、なかなかに現代的なテーマに切り込んだ、かなり社会派な映画であることに。

新興科学の制御不可能性

科学と魔法

舞台がイギリスで、魔法の描写が魅力的であるという点では確かにハリーポッターだが、決定的に違うところがある。それは魔法「科学」と呼ばれている点だ。実際に、魔法だけではないし、化学や数式を用いた授業もあるし、現代的な魔法学校という感じだ。また科学は、フィクションの世界で魔法という描かれ方をされることが多い。科学の原点は魔法であり、魔法の実現を目指して科学技術が発展した現在、科学と魔法の境は区別がつかなくなっている。これらを踏まえて考えるとスタジオは意図的に科学を魔法として描いた可能性が高い。

異種交配と科学批判

作中で実験によって失敗した動物たちが登場するシーンがある。ここで出てくる動物たちはどれもこれも何種類かの動物をミックスさせたかのような姿形で、異種交配技術を彷彿とさせるものがある。禍々しさを感じざるを得ないその姿形、猫のティブのかわいいパートナー、ギブが爬虫類目の動物に様変わりした様子を見て同情心が沸かない視聴者はいないだろう。これとは対照的に「失敗は成功のうち」と何度もリピートされるドクターデイのセリフ。これはいかに科学者が無情で共感性にかけているかを皮肉に描くために繰り返されているに違いない。

制御できない科学をどうすべきか


作中で重要なエレメントとして、魔女の花、通称「夜間飛行」が登場する。これは万能な花で魔女ではないメアリもこれを使って魔女のような力を手に入れることができた。また、2人の科学者に万能な力を手に入れたと錯覚させ、倫理規定を無視して研究を進めてしまった原因でもある。これが昨今流行りのAIや遺伝子組換えのような「新興科学」の基礎となる技術である。「なんでもできるようになりそう」という無限大の可能性を感じさせる一方で使いようによっては悲劇を生む可能性がある。例えば細胞再生技術や、昨今のAI技術だ。実験による失敗によって生まれた細胞再生技術は多くの困っている人を救う可能性がある一方で未だにクローンの生成など倫理的な問題が未解決である。こうした制御不可能性に対する制作側の考え方として作中で「コントロールできないものを生み出してはだめよ」というようなセリフや、魔法の花を手に入れた二人の科学者ドクターデイとマダム(校長)が魔法が使えない人間を魔法が使えるように変えようとして、何度も実験に失敗する描写、メアリが「夜間飛行」を「私にはもう必要ないわ」と捨てるシーンがある。これらから代表されるようにこの作品は徹底して「制御不可能な科学を野に放つ危険性」を主張している。これが私がこの作品を奥深いと思った理由だ。こうした問題は細胞再生技術だけでなく、現在形で進行中のAIの技術倫理の問題にも通底するものがある。


なぜメアリの舞台がイギリスなのか(ハリーポッターとの類似性)


赤毛(差別)

メアリと魔女の花がイギリスを舞台としたのは、イングリッシュガーデンが美しいことなども理由として挙げられるが、第1に「イギリスの階級社会、差別」であると思う。御存知の通り、イギリスでは「赤毛」というのが特異的存在の象徴、符号として使われており、ハリーポッターに登場する「魔法族では珍しくマグル寄りの考え方を持ったウィーズリー家」も赤毛だし、マグル生まれのハリーの母、リリー・エバンズも赤毛である。メアリと魔女の花の作中でも最初ピーターに「やーい赤毛」と言われる、というようなからかいの文脈で赤毛は使われるし、ネガティブなニュアンスを大いに含む。しかし物語中盤に差し掛かり、メアリが夜間飛行のお陰で周囲に力を認めてもらう過程では「やはり優秀な生徒は赤毛だ」という使われ方もする。ハリーポッターに登場するリリー・エバンズもマグル生まれでありながら優秀という設定である。赤毛は「特異」で「優秀」という符号を持つ。

生まれと階級

イギリスを語るうえで避けられない壁がこれだ。ハリーポッターでは「マグル生まれ」と「魔法族生まれ」、そして「半純血」「スクイブ」のような分類で、マグル生まれというのが「本来魔法の力を持たないはずのマグルから突然生まれた魔法力を持つ者」を意味する。つまりは「魔法族生まれ」が階級のトップに居るような由緒正しき貴族で、「マグル生まれ」はぽっと出の庶民というような認識。メアリと魔女の花でも同様に、メアリが魔法使いと勘違いされている間は厚遇されたのに、魔法を使えない事が分かるや否や「不法侵入者」として即追放、もしくは実験台とされた。この生まれを重視する傾向はイギリスを舞台とするのが最も描きやすいであろう。

高貴な生まれが使うかより、思いやりがあるか

ではそもそもなぜこの「生まれ」の違いをわざわざ作者は描いたのか。それは恐らく「強力なパワーの持つものを上手く扱えるかは、生まれによらず、無欲であるかどうかにかかる」というメッセージ性を込めるためだ。メアリと魔女の花では、生まれながらに魔法使いのドクターデイとマダムは残念ながら欲に溺れ、実験を何度も失敗させた。しかしメアリはどうか。彼女は一度は夜間飛行の保つ力で得られる名声を甘んじたが、最後には自分の身を顧みずピーターを助けるために身を賭し、魔法で歪んだ変身をさせられた哀れな動物たちを元の姿に戻してあげた。つまりこの物語が言いたいのは「私利私欲を追求する者には強力な力は正しく使いこなせず、生まれは全く関係ない」ということである。
ハリーポッターでもダンブルドアが「権力というのは私のような人間は持ってはいけず、君のように無欲な者が持つべきなのだ」とハリーに語りかけるシーンが有る。

強すぎる力は、いっそ無い方が良いという思想

先に挙げた物語後半のメアリが「夜間飛行」を「私にはもう必要ないわ」と捨てるシーンなどは、ハリーが「最強の杖」と目されていた「ニワトコの杖」を映画の中ではへし折り、原作の中ではダンブルドアの墓に戻したシーンを彷彿とさせるものがある。これらの類似点は「強すぎる力は人間が扱えるものではない」「そういうものはいっそ無いほうが良い」という人間の愚かさを前提とした主張である。

涙の効力

メアリでは、メアリ自身の涙によりホウキが修復不可能と思われるほど折れていた状態から息を吹き返す。ハリーポッターでは、2巻で不死鳥のフォークスの涙のお陰でもう助かる見込みはないと思われたバジリスクの強い毒が無効化された。涙など一定の要素が効力を持つ法則は魔法を扱う物語において共通するものが多いのではないか。これらの多くは恐らく聖書や神話など、古典的物語の展開に起因している。


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