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ヤル気がない

 科学者の長く専門的で込み入ったプレゼンテーションは多くのあくびとそれと同じくらいの居眠りと僅かな傾聴によって迎えられた。その場にいた議員の一人はそのおかげで長年悩まされていた不眠症が治ったほどだった。
 その後行われた議論はさほど過熱もせずに決着をみた。決め手は科学者のプレゼンテーションではない。その毒ガスが経済的かつ人道的だという触れ込みだったからだ。議員たちに理解できたのはそれだけであり、それ以外には興味が無かった。それは事前に説明されていたその毒ガスの特性からも簡単に理解できることだった。
 まず、その原料がキッチンにあるような手近なものであることである。科学者はその科学反応等についてくだくだと説明したのだが、特に水と反応させると簡単に増やせるということが評価された。水ならいくらでもある。なんなら空から降ってくることさえあるのだ。
 経済的である。
 そしてその効果である。科学者はその科学物質が人体にどのように作用するかをこと細かに説明したのだけれど、それの神経系への作用など、実に込み入った内容である。端的に言うと、その毒ガスは人を殺さないということだ。涙が止まらないとか、手足が痺れたりとか、呼吸ができなくなるとかもない。
 人道的である。
 その毒ガスを吸った者はたちまちヤル気を失う。それだけで、肉体的には一切害がない。これなら敵兵は戦意を喪失し、戦闘どころではなくなるだろう。血が流れるわけでもない。議員たちは自分たちが非常に人道的な決定をした。もっとも、実験でこの毒ガスを浴びせられたモルモットはヤル気を失い身動きしないようになり餌を食べることもせず、ほどなく餓死してしまったのだが。
 早速この毒ガスが大量に生産された。
 そして、戦線へ輸送、ということになったのだが、事故で自国内で毒ガスが漏れてしまった。運悪く、事故現場の近くには運河があり、科学反応が起こり、あっという間に毒ガスが辺りに満ちた。
 ここから、様々なことが起こる。
 起こる。それは実にドラマチックである。
 しかしながら、ヤル気が出ない。事故現場はわたしの書斎の目と鼻の先なのだ。わたしはそれを目一杯吸い込んだ。
 吸い込んだ感想を書くべきだろうが、ヤル気が出ない。
 というわけで、ヤル気がなくなったのでこれでおしまい。


No.867

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