見出し画像

ぼくとわたしのあいだ

 夜中に目が覚めた。口の中がカラカラに渇いていた。ベッドからそっと抜け出し、キッチンへ行った。蛍光灯をつけた。ブーン、カチッ、パチ、パチ。急に明るくなったものだから目の奥が痛んで、目を細めた。しばらくしていると慣れて、目を開いたけれど、瞼は重い。コップを出して、蛇口をひねった。水を半分くらい入れて、蛇口を閉める。コップのふちに唇を当てると、なんだかそれはとても固くて、ゴロっとしていて、ガラス臭かった。口に含んだ水は、金属の匂いがして、とても固くて、口の中を不器用に流れ、喉をコロコロと転がり落ちて行った。ぼくはひとつ息をついた。冷蔵庫のコンプレッサーが唸りを上げる。蛍光灯の明かりがチカチカしている。キッチンの臭いを胸いっぱいに吸い込む。古い家だからだと思うけれど、いい匂いではない。いろいろなものの入り混じった、なんとも言えない臭い。どちらかと言えば、不快な臭い。でも、きっと懐かしくなるであろう臭い。ぼくはしばらくそこにそのまま立っていた。夜は、静かだ。耳を澄ます。遠くの街道で車が走っていく音が聞こえる。たぶん、大型トラックだ。この先にある、コンビナートか、港に行くか、そこから来たかしたんだろう。それが何を積んでいて、どこに行くのか、ぼくは知らない。虫の声がする。家の周りは原っぱだから、きっとそこにたくさんの虫がいるのだろう。とても静かだ。
 誰かが歩く音がした。床が軋む。一瞬、どこかに隠れたくなるけれど、別に真夜中に起きているだけで、悪いことをしているわけではないのを思い出す。別に、ぼくは何も悪いことをしていない。だから、そのまま、その足音を待つ。
 母だった。蛍光灯の明かりに目を細めている。
「眠れないの?」母はぼくにそう尋ねた。
「ううん」と、ぼくは答えた。「うん」
「どっち?」と、母は笑い声をこぼした。「大丈夫?」
「うん」と、ぼくは答え「ううん」と続けた。
「どっちなの?」と、母は笑った。
 正直自分でもわからなかった。なにがなんだかわからなかったのだ。ぼくは戸惑っていた。時計の針が時を刻んでいる。コツ、コツ、コツと。それは無情に進んでいって、止まることもないし、戻ることもない。そんなことに自分が気づくようになるなんて思いもしなかった。別にそんなことはどうでもいいことだと思っていた。「夕焼け小焼け」が流れるまで遊んでいられる。それだけで充分だったはずだった。でも、そうじゃないことに、気づき始めていた。
「なにに」と、母は椅子に座りながら言った。「そんなに、イライラしているの?」
 なにに?それがわかれば苦労はなかった。ぼくはなんだか無性にイライラしていただけだ。イライラしていることにイライラし、そんな風にイライラしている自分にイライラした。そして、どうしようもないそのイライラを、周りにぶつけていただけだ。それは、それだけは自分でもわかっていた。全部八つ当たりだ。ぼくを責めたければ責めればいい。
 母は息をついた。慎重に、ため息として聞かれないように気を付けながら。そして、言った。「大丈夫だから」
「なにが?」
「さあ」と、母は肩をすくめた。
「なに、それ?」ぼくは思わず噴き出した。「変なの」
「そうだね」と、母は微笑んだ。ぼくは息をついた。そして、自分の中で言葉がまとってくるのを待った。母はそれを待ってくれていた。少しだけ、沈黙が流れた。
「なんて言うか」と、ぼくは話し始めた。「幼稚園の頃は、名前にちゃん付で自分のこと呼んでたじゃん?」
「あなたが?」
「そう」
「そうね」
「でも、それじゃ子どもみたいだなって思うようになって」
「うん」
「でも、自分のことなんて呼べばいいか、わからなくなってきて」
「それで、『ぼく』って言ってるの?」
「そんな感じかな」と、ぼくは息を吸い込む。「『わたし』って感じじゃない。友達ではそう言ってる子もいるけど、なんかしっくりこないの。なんか、こう、モヤモヤしちゃうんだよね。『わたし』だと」
 母は「ふふふ」と笑った。そして、「いいんじゃない」と言った。
「え?」
「いいんじゃない、別に」
「そう?」
「そう」母はそう言ってあくびをし、体を伸ばすと、椅子から立ち上がった。
「寝る?」
「うん、あんたも早く寝なさいよ」
「ありがとう」
「なにが?」
「おやすみ」
「おやすみ」
 別になにひとつ解決なんかしていないけど、たぶん、わたしはわたしを、そこにいるわたしを受け入れられるときがくるんだろうな、って、なんとなくそんな気がした。


No.534


 兼藤伊太郎のnoteで掲載しているショートショートを集めた電子書籍があります。
1話から100話まで

101話から200話まで

201話から300話まで

noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。
よろしければ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?