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幽霊獲り

 夏になると父が夜な夜な外出するのは物心ついてからずっとだったので、どの家もそんなものだろうと思い込んでいたが、学校に上がってできた友人たちの話を聞くと普通はそんなことはないというのがわかって驚いた。彼らの父親のある者は冷房の効いた部屋で読書し、またある者はテレビのスポーツ中継をビール片手に見るでもなく眺めているのだということだった。そこで初めて、父は夏の夜にどこへ行っているのだろうという疑問を持った。
 家に帰り、母にその疑問をぶつけてみると「釣りに行っているのよ」という答えが返ってきた。近所の池に釣りをしに行っているのだと言う。
「釣り?」
「そう言ってるわよ」
「夜に魚が釣れるの?」
「わからないけど、お父さんがそう言ってるんだから、釣れるんじゃない?」
母は一事が万事この調子の人だった。父に関心がなかったわけではない。父が言うことは全く疑うことなく信じたのだ。彼女にとって、父がそう言うならそうなのだ。
 しかし、その返答でこちらも納得できるかと言えばそんなことはない。話を聞いて回ると、その池には魚なんてろくにいないという話だったし、外出する際の父の装いも釣りとは違うような気がした。釣果だと持って帰る魚も魚屋で買ったもののように見えた。父に直接尋ねることもできたが、感じていた秘密の匂いがそれを躊躇わせた。もしかしたら、それは父が秘密にしたいことなのかもしれない。秘密の匂いはまた蠱惑的でもあった。日毎にその秘密を暴きたいという気持ちが高まった。そこで、ある日意を決して、外出する父をつけてみることにした。
 いつもはだらだらとテレビを眺めていたが、その夜は疲れたと言って早めに部屋に行った。子供部屋は一階にあったので、窓から抜け出し、玄関の脇で息を潜め、父が外出するのを待った。
 父が出てきた。迷うことのない足取りで進んでいく。池に行くなら曲がらなければならない角を曲がらずに進み、裏山の方へと進んでいく。やはり、夜釣りというのは嘘だったのだ。胸が高鳴った。灯りが少しずつ減っていく。虫が鳴くのと、父の足音以外に何も聞こえない。頭の上は、次第に背の高い木々に覆われ、夜の闇よりも深い闇に包まれていく。
 不意に父の後ろ姿が立ち止まった。夢中で父を追いかけていた時にはさほど気にかけなかった闇が、急に強烈な圧迫感を持って迫ってきた。恥ずかしながら、夜中に一人で便所に行くのも怖がる子供だったのだ。とてもではなかったので父に助けを求めてしまった。
「父さん」
 父は驚いた様子もなく「ああ、いたのか」と言った。どうやら尾行されているのに気付いていたようだった。
 目の前には廃墟があった。友人たちとの間では幽霊が出ると噂の洋館だ。恐怖はさらに高まった。何か曰く付きだとかいう話だったが、どんな曰くだったかは忘れた。
「なんでこんなとこに?」と怯えながら尋ねた。父は何も答えずただ微笑んでいた。その笑みがひどく不気味なものに見えた。それまでに観たホラー映画のシーンの数々が頭を過った。父がこちらの手首を掴んだ。洋館の方へ連れて行こうと引っ張る。「いやだ」と言おうとしたが声が上手く出ないので首を横に振り、その場で踏ん張ったがあえなく引き摺られて行った。
「大丈夫だよ」とでも言うように父は頷いた。殺されるにちがいないと思った。映画では、秘密を知ってしまったがゆえにこうして殺されるのだ。
我慢できなくなって、声を上げて泣いてしまった。父は慌てて、口元に指をあて「しー」と言った。「静かに。幽霊が逃げちゃうよ」
「幽霊?」
 父は幽霊を捕りに来たのだ、と説明してくれた。網を見せながら。
「幽霊を見たことがあるの?」
「いや、ないよ。だから捕まえたいんじゃないか」
「見たこともないのに捕まえられるの?」
「幽霊がいるのなら捕まえられるだろ」
 まだ父が幼い頃、「お前くらいの歳の頃」と父が言うくらいの頃から、父は幽霊が見たい一心で出ると言われる場所に出かけていたそうだ。
「なんで釣りに行くだなんて言ったの?」
「幽霊を捕まえに、と言って何も収穫なしで帰るのは恥ずかしいじゃないか」と父は肩をすくめた。「魚なら魚屋で買って誤魔化せる。幽霊だとそうはいかないからな」
 それからというもの、父の幽霊捕りに同行するようになった。父がしつこく誘ったからだ。最初は嫌々、父にしがみついて恐る恐るだったが、慣れとは恐いもので、最後には廃墟を一人歩きするようにまでなった。そのくらいにまでなると、幽霊なんていないと思うようになっていた。父と散々出ると言われる場所を回ったが、一度として幽霊に遭遇したことがなかったからだ。もちろん、父の収穫もゼロのまま。魚を買って帰ることになる。恐いのは幽霊よりも、腐った床板を踏み抜いて下の階に落下することだった。当然ながら、夜中に一人で用を足しに行けるようにもなった。
 夏休み明け、友人たちは父親と甲虫を捕りに夜の森に入った話をしてくれた。お前にはそういったことがなかったかと尋ねられたので
「まあ、似たようなことはね」とだけ答えておいた。
 あれから月日が流れたが、今も夏になると父は幽霊捕りに出かけるらしい。もちろん、母には夜釣りに行くと言って。

No.231

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