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 何気なく耳をいじっていたら取れた。耳が。耳は頭の横にある、あの耳だ。パンの耳ではない。耳だ。
「取れた」と、ちょうど向かいに座っていた友人に、取れた耳を見せながら言うと
「ああ、ほんとだ」と、これといって驚いた様子はない。
「普通驚かない?」
「ああ、俺も前にそんなことがあったんだよ」と、友人。
 話を聞くと、彼は以前鼻をいじっていたら取れたらしい。鼻が。鼻は顔の真ん中についているあの鼻だ。野に咲く花ではない。鼻だ。
「いや、実際焦るよな」と、友人は焦った様子を微塵も感じさせずに言う。
「平気だったのか?」焦っているのはむしろこちらだ。現在進行形で耳が取れている。つい、友人の鼻をまじまじと見詰めてしまう。それはいたって普通であり、常にそこにあり、いままで一度もそこを離れたことなどなく、よもや取れたことがあるなんて想像もできない。継ぎ目や傷跡もない。鼻だ。ただの、鼻だ。
「いや、そりゃ苦労したよ」
「何に?」
「付けるの」
「付くのか?」
「付くさ」
「病院とか?」
「まさか。病院なんか行かないよ。自分で付けたんだ」
「自分で付けられるのか?」
「そりゃ、付いてたものは付くだろう」と、いたって真面目な顔で友人が言うものだから、なるほどそういうものかと納得しそうになる。説得において重要なのは、どうやらその意味内容ではなく、その態度のようだ。説得力のある態度で臨めば説得できるのだ勉強になった、などとのんきに納得している場合ではない。取れているのだ。耳が。
 耳の付け根だった部分を見ると、なにやら出っ張りだとか輪になったものがある。鏡で耳のあった場所を見るとそこにもだ。ちょうど知恵の輪のような具合である。どうやらこれを上手くはめれば、確かに元通り付きそうに見える。
「なんだ、簡単そうじゃないか」
「そう思うだろ?」
「簡単に取れたんだぜ。はめるのだって簡単さ」
「まあ、頑張ってごらん」
 と、頑張ってみることにしたが、これがなかなか上手くいかない。まず、耳は頭の側面にあるわけで、鏡を見ながらでも見づらい。それもさることながら、この出っ張りやら輪やらがかなり複雑で、どうやってはまっていたのだか見当もつかない。
「駄目だ」
「難しいだろ?」
 友人の場合、鼻だったのはまだ幸いだったのではないかと話し合った。それなら正面を見据えて取りかかることができる。
「それに、付くまでマスクで隠しておけたし」
「ああ、あの時か。風邪だって言ってた」
「そうそう。あの時」
 それにしても上手くいかないとイライラしてきて、無理矢理付けようとしてしまう。強く押し当てれば何かの拍子に付くのではないかという気になるのだ。しかしながら、ギュッと押し付けてもちっとも付く気配もない。いともたやすくポロリと落ちてしまう。それで苛立ちは募り、地団太を踏む。それを見ている友人は笑いを堪えている。
「力じゃないんだよ」
「見てないで助けてくれよ」と、耳を差し出した。
「いやだよ、気持ち悪い」と、友人。
 気持ち悪いとはなんだ、と立腹しかけたが、確かに自分の耳ながら、手の中にある耳は気味が悪い。複雑な曲線でできたそれは、花のようでありながら生々しくて、見ていると吸い込まれそうだ。触った弾力も気持ちが悪い。
耳に口を寄せ、何か囁こうかと思ったが、何も思い付かなかったのでやめた。
「まあ、いずれ付くさ。取れた時みたいに、不意に」

No.272

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