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PRISM

 彼女は虹を描くことができた。虹とは空にかかる、あの虹だ。あの、七色の虹。それを彼女は描くことができた。意味がわからないと思う。ぼくもそうだった。
「わたし」と、彼女は言った。「虹、かけるの」
「虹は」ぼくは言った。「空気中の水滴に光が反射してできるんだよ」
 彼女はじっとぼくを見た。なんだかとても愚かな人間を見るみたいな目つきだった。ぼくはたじろいだ。そんな目で見られることに慣れていなかったからだ。でも、すぐに気を取り直した。ぼくは間違ったことを言っていないのだ。胸を張っていい。
 当時のぼくは、その年齢にしてはいろいろものを知っていたように思う。両親はぼくによく図鑑を買い与えたし、テレビでも動物の生態についての番組をよく見せられていた。学習塾にも通っていて、成績も良かった。とても良かった。どちらかというと、小賢しい生意気な子どもだっただろう。
 それに引き換え、彼女は小数の足し算引き算が苦手で、九九もあやしくて、漢字テストはいつも悲惨、授業中いつもぼんやりとしてた。どちらかというと、と言うか、ハッキリ言って勉強ができない方で、ぼくは彼女をバカにしていた。それはぼくに限らず、他のクラスメイトもそうだったし、女子たちだって同じようなものだ。彼女はといえば、そんなことには気づかない様子で、女子たちの輪の端っこの方でいつもにこにこしていた。ぼくはそんな様子を見てさらに彼女をバカにしていた。
 彼女が自分は虹をかけると言ったとき、当然ぼくは彼女をバカにした。
 どういう拍子だったのかは覚えていないけれど、下校のとき、ぼくは彼女とふたりきりになった。ぼくはそれを誰かに見られて、彼女と一緒に帰っているのだと勘違いされたくなかったから、少し距離をとって歩いていた。彼女はのんびりと歩いていて、なかなか進まないものだからぼくは苛立っていた。いっそ追い抜いて行こうかと思った時に、彼女は振り向き、言ったのだ。
「わたし、虹がかけるの」
 なにをおとぎ話みたいなこと言ってんだ、現実とお話が区別できてないんだな、可哀想に、くらいに思った。ぼくにとって、世界とは完全に現実的なもので、科学的なもので、そうやって積み上げられた法則の上に成り立っているものだったからだ。その信念はいまもって変わっていないけれど、あるいはその堅牢な建築物にもほんのわずかかもしれないけれど、ほころびや曖昧な部分があるのかもしれない。
「プリズム。透明なものを通過すると、光が分解されて七色に見える。七色って言うのはぼくらの文化での話で、他の国では」と、ぼくはくだくだと能書きを垂れていた。彼女はぼくの言葉を遮った。
「かけるよ、虹」彼女はそう言うと、空を指さした。雲ひとつ無い、晴れ渡った青空だ。そして、立てた人さし指でサッと弧を描いた。その指先が滑って行ったところに、まごうことなき虹ができていたのだ。それは間違いなく虹だった。誰がなんと言おうと虹だった。ぼくは空を見渡した。雨の気配はどこにもない。
「どうして?」と、ぼくの口をついて出た。彼女は首を傾げていた。
「こうやって」彼女はそう言うと、またサッと弧を描いた。虹ができる。ぼくはその原理が知りたかったのだけれど、彼女にはそんなものどうでもいいようだった。彼女にとって重要なのは、そうすると虹がかけるということであり、それ以上のなにかを求めるようなことはなかったのだろう。
 彼女が虹を描くのを見たのはその一度きりだった。
 中学校まではぼくと彼女は同じ学校だったけれど、高校からは別の学校になった。ぼくは進学校に行くようになり、彼女は彼女と同じくらい勉強ができる子たちの集まる学校に行った。そもそも仲が良かったわけでもないから、学校が違えば彼女と会うことはない。噂も聞かない。ぼくらの育ったのは、郊外とは言え、そこそこ都会で、出入りも激しく、それなりに人間関係は疎遠な土地だった。彼女に限らず、ぼくは多くのクラスメイトがどうしているのかを知らない。彼らもぼくがどうしてるのかを知らないだろうし、別に知りたいとも思わないだろう。そういうものだ。
 進学校に行ってみると、ぼくみたいなやつはごまんといて、ぼくはそれなりに高くなっていた鼻を折られ、それなりに生意気でなくなり、相変わらず鼻持ちならない生意気な大人になった。そういうものだ。
 彼女がどうなったのかは知らない。きっと、たぶん、どこかでスポイルされてしまっていることだろう。勉強ができないということに対して、世の中はゾッとするくらい冷淡だ。なんとなくぼくはそう思う。勉強ができることと虹が描けることなら、世の中は前者を称揚する。もしかしたら、彼女はもう虹を描くことをやめてしまっているかもしれない。充分あり得る話だ。
 そういうものだ。
 たまに、空に虹がかかっているのを見ると、ぼくは彼女のことをちょっとだけ思い出す。そして、すぐに忘れる。


No.528


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