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自転車に乗って

 わたしは自転車に乗れない。
 自転車に乗れなくても、ちゃんと学校を出たし、真面目に仕事をしている。自転車に乗れなくても、わたしのことを好きになってくれる人に出会えて、結婚もした。自転車に乗れなくても、そんなことは人生において些細なことであり、なにひとつ引け目に感じるようなことではない。
 別に、自転車に乗れなくてもいいのだ。自転車に乗れなくて困ったことはそんなにない。
 小さな子たちが、歩いているわたしを自転車で追い越していった。軽やかに。わたしはそれを目で追ってしまう。危ないなあ、とか思いながら。母親が自転車のうしろに幼児を乗せて走り去る。倒れたら大変なことになるなあ、とか思う。危ない、危ない。自転車は危ない。乗らなくても済むのなら、乗らないでいい。
 本当に?
 わたしが自転車に乗れないのは、わたしの母が乗れなかったからだろうと思う。母が自転車に乗れなかった理由はわからない。
 母は自転車に乗るという行為にはオリンピック選手になるくらいの運動神経が必要とされると考えていた節がある。歩きで買い物に行くわたしたちを自転車で颯爽と追い抜いていく蕎麦屋の出前を見ながら、本当に感心した様子で「たいしたもんだねえ」と感嘆していた。あれはテレビで中継されたオリンピックを見ながら言った「たいしたもんだねえ」と同じ響きがあった。
「わたしたちには無理だと思うよ」というのが、自転車に対しての母の見立てだった。わたしもそれに異存はなかった。「ケガするだけだから、よした方がいいよ」
 わたしの運動神経も残念なものだったのが大きい。スキップができないし、徒競走ではいつもビリ、体育の時間と運動会は憂鬱で仕方がなかった。自転車も乗れるようになるなんてことはきっとないんだろう。そう思っていた。
「そんな大袈裟な」と、夫は笑った。
「じゃあ」と、わたしはちょっと憤りながら言った。「乗れるの? 自転車」
「乗れるよ」と、夫。
「ウソ」
「ホントだよ」夫は笑う。
「乗ったとこ見たことないよ」
「だってウチに」と、夫は言った。「自転車が無いじゃない」
 テレビもソファも車もあるが、自転車は無い。なにしろ乗れないのだから、わたしはそれを買おうなんて思わない。てっきり夫もそうなんだと思っていた。夫の運動神経もなかなかのものだからだ。
「ウソでしょ?」わたしは夫が自転車に乗れるのだと言うことが信じられない。
「どうして」と、夫は取り合わない。「そんなことでウソをつかなきゃならないの?」
 ちょうどふたりとも休みの日だったから、自転車を買いに行くことにした。
「いいのかなあ」わたしは夫に言う。「ウソがバレちゃうけど、いいのかなあ」
 夫はただ笑うだけだ。
 わたしがどの自転車にするかを決めていいというので、赤いかわいい自転車にした。
 そして、自転車屋さんを出ると、夫はおもむろに自転車にまたがった。そして、ペダルをグッと踏むと、スーッと走り出したのだ。まるで滑るみたいに。わたしはその後ろ姿を呆然と見送った。
 夫は少し行くと軽やかにターンしてこちらに戻ってきた。
「自転車」と、わたしは言った。「乗れるんだ」
「言ったじゃない」と、夫は笑った。「簡単だよ。君も乗れるようになるよ」
 そうして、わたしの特訓がはじまったのだ。コーチは夫、場所は夜の公園だ。人目につくのは恥ずかしい。
「行くよ」と、夫がわたしの乗った自転車をうしろで支え、押してくれる。
 わたしはハンドルをギュッと握る。緊張して胸がドキドキする。「離さないでよ」
「離さない」
「離さないで」
「離さないよ」
「離してるじゃん」
 わたしは倒れる。「ウソつき」
「ペダルをこがなきゃダメだよ」と、夫はわたしの抗議になんて耳を貸さない。「もっとリラックスしてハンドルを握りなよ」
 そうして、汗だくになりながら練習するのだけれど、なかなか乗れるようにならない。夫が赤い自転車を押しながら、わたしたちはトボトボ歩いて帰るのだ。
「自転車に乗れるようになったらさ」と、わたしは言った。「もう一台自転車を買って、ふたりで河原まで行こうよ」
「いいね」と、夫が言った。





No.993

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