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絵師と龍

 龍は戸惑っていた。常識があり、聡明で、ちゃんとした分別の備わっている龍にとって、龍とは架空の存在であり、それは実在してはならないからだ。ところが、そんなものが存在している。しかもそれは自分自身なのだ。龍は戸惑った。自分自身の存在することに。恐ろしい牙の並ぶその大きな口、ギョロリと鋭い目付きは睨んでいるかのように見えるかもしれないが、それは戸惑いの表情であった。
 絵師は龍の表情に戸惑った。龍を描いた絵師である。老いた絵師だった。腕の立つ、名人と評判の絵師である。これまでにも何枚もの絵を描きあげてきた絵師だ。それも、名作の誉れ高い絵ばかりである。しかし、これまで自分の描いた絵がそんな表情をしたことは一度としてなかった。今まで描いたものどもは、みな満足そうにそこに収まっていたのだ。それは鶏であれ、虎であれ、鹿であれ、獅子であれ。それはもちろん、絵師がそうした表情で描いたからでもあった。絵師の筆から生み出されたものどもらは、まるで生きているかのように真に迫っていた。それは鶏よりも鶏らしかったし、虎よりも虎らしかったし、鹿らしく、獅子らしかった。そのものどもらは、喜悦であれ、憤怒であれ、絵師の描いた表情の通りにそこに収まり、そうした表情で描かれることに不満などなかった。喜悦の兎は喜悦の表情であり、憤怒の虎は憤怒の表情であり、そうした表情であることに不満など一欠片も無くそこに収まっていたのである。
 しかし、絵師の描いた龍は戸惑いの表情であった。絵師はそうした表情で龍を描かなかった。すべてを威圧するような勇ましい表情で、絵師は龍を描いたはずなのだ。龍に相応しいのはそうした表情である。人間を含めた地を這うものを見下ろし、睥睨し、支配する存在こそが龍であり、それをこそ絵師は望み、紙の上にそれを現そうとしたのである。それなのに龍は戸惑いの表情であった。それは龍に似つかわしくない表情である。少なくとも、絵師が望んだものではない。
「お前は何者だ?」龍は絵師に尋ねた。
「わたしは絵師だ」絵師は答えた。自分の筆から生まれたそれが人の言葉を喋ったことに少なからず驚いていたが、しかしながら得心もしていた。自分の筆力はそこまで高まったのである。描いたものに生命をもたらすほどにまで。龍は命を得たのだ。
「何を戸惑っているのだ?」と絵師は龍に尋ねた。
「俺は存在してはならない」龍は答えた。「俺は存在してはならない存在だ」
「わたしがお前を存在させた」と絵師は言った。「お前は存在して良いのだ。存在し、世を睥睨してしかるべき存在なのだ」
「お前が俺を存在させたのか?」龍は絵師を睨みながら尋ねた。
「そうだ」絵師は大きく頷いた。自分の筆力を誇りに思い、それから生み出された龍が誇らしかった。その龍が戸惑いの表情を浮かべることが絵師には許せなかった。龍は勇ましく、自信に満ち溢れ、世を睥睨してしかるべきである。
 龍はギロリと絵師を見た。そして、大きな口をガバリと開けると、絵師を頭からガブリと食べてしまった。絵師は悲鳴をあげる間もなく呑み込まれてしまった。
 そして、龍は戸惑っていた。自分の存在することに。

No.321

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