見出し画像

職業・大統領

「本当にろくでもない国でした」とわたしは移民局の係官に話していた。「役人どもが偉そうにふんぞり返り、わたしたちはいつもビクビク暮らしていたもんです」
 念願叶い、わたしは祖国から亡命したのだった。賄賂が横行し、金持ちだけがさらに金持ちになるような国だった。天涯孤独であったわたしは祖国になんの後腐れもなく、もし祖国になにか一言するとしたら、清々した、の言葉のみだ。本当に清々した。何の後腐れもない。その瞬間、わたしにあったのは新天地での不安混じりの希望だけだった。不安混じりではあっても、希望を持っていたのだ。
 わたしは係官の差し出した書類に記入していっていた。姓名、生年月日、出生地、職業。職業?
「これは」とわたしは係官に尋ねた。「これまでの職業ということですか?」
 わたしは祖国において理髪師をしていた。しがない、という形容のしっくりくる職業だ。別に尊敬されることもなく、日々淡々と鋏を動かして年を重ねてきた。
「いえ」と係官は首を横に振った。「我が国での、これからの職業です」
 一瞬、わたしは少し頭に来た。なにしろ、わたしはすべてを捨てて新天地にやって来たのだ。職業など、決まっているはずがない。この係官はそうした苦労が何もわかっていない。もちろん、わかれという方が無理な相談なのかもしれないが、それにしても配慮というものがあってもいいのではないか。
「ありません」とわたしは答えた。「他の人たちがどうかは知りませんが、わたしは何のあてもなくやって来たのです。わたしは無職です。できる限り早くその状況を脱したいとは思っていますが。掃除夫でも、ゴミ回収人でも、なんでもやって」
「どちらにしますか?」
「は?」
「どちらにします?ゴミ回収人か掃除夫か」
「仕事を斡旋してくれるんですか?」
 係官はわたしをまじまじと見詰めた。「いえ」そして、下がってきていた眼鏡を直した。「ここは自由の国です。あなたは望めばどんな職業にでも就ける。あなたがそこに望みの職業を書きさえすれば」
 わたしは係官の言うことの意味が飲み込めなかった。どんな職業でも?本当に?
「どんな職業でも?」
「ええ」
「面接や試験は?」
「ありません」
「弁護士でも、医者でも?」
「裁判官でも、大統領だって」
 おそらくわたしは怪訝な顔付きで係官を見ていたのだろう。係官は肩をすくめた。「あなたに必要とされているのは、ただ望むことです。それだけ。以上」
 からかわれているのだ、という思いが依然としてわたしの中にあった。そんなバカな話があってたまるか。国にやって来たばかりの人間を裁判官にでも大統領にでもする?そんなことなら、誰もが大統領になることを望むだろう。弁護士になるだろう。医者になるだろう。それでは、国には大統領や弁護士や医者だらけになってしまう。
「では」とわたしは少し挑むような調子で言った。「わたしは大統領になることにしよう」
「では」と係官は言った。「ここに大統領と書け」
「なんだね君」とわたしは言った。「わたしは大統領だぞ。もっとわたしを崇めたまえ」
「お前はバカか」と係官は言った。わたしはやはりからかわれていたのだと思った。
「やはりからかっていたのだな。わたしが移民だからといって、バカにしやがって!」わたしは激怒した。こんな侮辱には耐えられない。もちろん、侮辱や差別は覚悟していた。わたしは余所者なのだ。新しい社会に馴染むには、時間がかかる、いや、完璧な同化などできないかもしれない、覚悟はしていた。しかし、その最初の一歩からしてこんな侮辱を受けるとは思ってもみなかった。
「何を言ってるんだ?」係官は鼻で笑いながら言った。「お前は大統領なのだろう。大統領はこの国では全ての国民に奉仕する、最も下位の職業だ。お前はそれを自ら望んだ。ちょうど前任者が辞めたばかりだったんだ。バリバリ働いてもらうぞ」
 かくして、わたしは大統領となった。後戻りはできなかったからだ。
「これが今日のスケジュールだ」と紙切れが投げて寄越される。分刻みのスケジュール。様々な式典や、外国の要人との会食、議会との折衝、等々。まるで馬車馬のように働かされる。
「おい!早くしろ!」
 しかも、全く尊敬されない。本当にこの国では大統領は最も賎しい職業なのだ。そして、最も尊ばれるのは掃除夫や、荷役、屠殺人なのである。
「何をしてる!早くしろ!」
 ああ、働かなければならない。

No.298

兼藤伊太郎のnoteで掲載しているショートショートを集めた電子書籍があります。
1話から100話まで

101話から200話まで

noteに掲載したものしか収録されていません。順番も完全に掲載順です。
よろしければ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?