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お願い、ぼくを消さないで

「いつまでみてるの!」というお母さんの声が台所から、食器を洗う水音と一緒に飛んできた。「早く寝なさい!」
「今、いいとこなんだよ!」子どもは言った。「もうちょっとだけ!」
「もうちょっとだけって」お母さんはエプロンで濡れた手を拭きながら。「もうちょっともうちょっとが続いて切りがないじゃない!」
 テレビ画面の中では、確かに物語は佳境に入ったところ、悪漢と主人公が対峙し、決着をつけようとしている場面なのだ。
「早くなさい」とお母さん。「私がお風呂から出てくるまでにはテレビを消すのよ」
「はいはい」子どもは画面から目を離そうとしない。「それまでには終わるから大丈夫」
「まったくもう」
 テレビの中では、悪漢が秘密兵器を取り出し、主人公たちを苦しめていた。子どもは食い入るようにそれをみている。手に汗握りながら、主人公を応援している。もちろん子どもだって、最終的には主人公が勝つであろうことは薄々感づいてはいるだろう。これまで一度として、主人公たちが負けたことなどないのだ。それでも、ハラハラドキドキしてしまうのはなぜだろう?もしかしたら、これが初めて主人公たちが負ける瞬間になるのかもしれない。どうにかこうにか秘密兵器の弱点を見抜いてそれを打破したものの、次は悪漢の卑怯な手で主人公が窮地に陥る。なんて卑怯者だと子どもは憤る。頑張れと心の中で念じる。主人公は、その危機的状況も仲間たちと力を合せて切り抜ける。そして、ついに悪漢をやっつけたのだ。ホッと胸をなで下ろす子ども。さて、もうじきお母さんがお風呂から上がるだろう。テレビを消していなかったらこっぴどく叱られるに違いない。子どもはテレビのスイッチに手を伸ばした。その時。
「待って!」
 テレビの中からだった。主人公の声、どういうセリフだろう?まだ番組が終わってなかったのかな、と子どもが画面を見る。画面の中では主人公を中心に悪漢や主人公の仲間たちが一列になってこちらを、子どもの方を見ている。「消さないで!」明らかに子どもに向けて、登場人物たちは言葉を発している。
「え、ぼく?」
「そう、君に言ってるんだ」主人公は言った。「どうかテレビを消さないでくれ」
「なんで?」子どもは尋ねた。「でも、消さないとお母さんに叱られちゃうよ」
「消されてしまうと」悪漢が言った。「我々も消えてしまうんだ」
「そう」主人公が言った。「この世界から我々は消えてしまう」
「でも」と子どもが言った。「来週になればまた会えるでしょう?」
 主人公は首を横に振った。「来週の我々は今日の我々とは違う。別の我々なんだ」
「だから消さないでくれ」悪漢が言った。「消えたくないんだ」
「まだテレビを視てるの?」お母さんの声だ。トゲがある。「早く寝なさい!」
 子どもはテレビのスイッチに手を伸ばし、それを押した。「あ!」プツンと消えて、画面は真っ暗になった。
「もう寝るよ」子どもは自分の部屋に駆けていった。「おやすみなさい」
 お母さんがやって来た。「これを読んでいるあなた」お母さんはそう言った。「どうかこれを読むのをやめないで」
「ぼくたちは」子どもが戻ってきてそう言った。「あなたがこれを読んでいることで存在できているんだ」
「私たち消えたくないの」
「お願い、読むのをやめないで」
「お願いです」


No.289

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